アスフォデロの野をわたる途中で

忘却の彼方にいってしまいがちな映画・音楽・本の備忘録

残酷で華麗なる最大の伏線回収回。おんな城主直虎第31回「虎松の首」

「自己ワーストの視聴率10.6%!だから女大河は、、、」のメディアのバッシングに驚いて平日からこのエントリーを書いています。(結局休日にかかってますが。。)私はこんなすばらしい「女大河」はないと思っている断然擁護派だからです。

 もはやテレビの視聴率やマスメディアの記事に一喜一憂する根拠もないし価値もない。それはわかっている。それでもかつての巨大メディアのニュースの見出しを見て「そっか直虎面白くないんだ」と思う人がいるくらいは影響力があると思っています。それは悔しいです。だからこのようなブログという個人でも発信できる手段がある以上、微力ながら発信しようと思います。
 
つか、この今をときめく高橋一生が血塗られた短刀片手に「差し出せ」の字幕背負ってて面白くないわけな家老が!
 
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第31回への「地獄へは俺が行く」の予告を見て遂に政次Xデー本編が始まったか、これからは1回たりとも見逃せぬ!と心震わせた私は実はTVを持っていないので、毎日曜日本放映終了直後21時解禁のオンデマンド(もちろん有料)を心待ちにしています。私は結構IT系に特化している民なのです。視聴率はTVを持たない民は母数からも除外してるので、視聴率世界においては毎週有料で見ている私もこの世に存在していないも同じ。なんて理不尽な世界だ。
 
そして中世から近世への無茶苦茶理不尽な戦国の世界に生きる、名もない人々を「なんで戦国の三傑が出ないんだ?」(いや出てはいるんですが・・・)と言われながら地味に地道に30週に渡って描いてきた「おんな城主直虎」
 
第31回『虎松の首』は、この予告の高橋一生 aka 但馬守政次の短刀の鮮血はいったい誰のものなのか?まさか虎松の首??
ということが焦点となったわけですが、むしろ今後最大のクライマックスに向かうにあたり、1回目から30回目までコツコツと積み上げてきた伏線の壮大な回収回になったのではないか、というのが私の印象です。
 
その1。井伊の隠し里

 

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ああ、この政次の笑顔、次郎に寄り添う直親、豪快に笑うおじじさま、美しい井伊の隠し里。次郎の後ろの二人は既に亡く、最後の一人さえももうすぐ失われてしまう、という事実(フィクションだが史実でもあるな)だけで泣けてきます。
 
この懐かしい風景から8年後(えったったの8年??)寿桂尼の遺言により遂に百姓たちへの徳政令を受け入れ、その見返りに方久に莫大な借金を返さなければいけなくなった井伊家は財政的に破綻し、城を今川に明け渡さずをえなくなります。ひとまず「川名の隠し里」に身を隠すことした直虎以下の井伊家。
 

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第7回「検地がやってきた」 では、自己申告制「指出」に敢えて書かなかった隠し里を直親からの政次への無茶振りでみごと隠し通した井伊家を描いています。
 
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「この里は井伊のものではないのだろう」と直親から打合せなく振られ「なに言ってんの」ってプチおこの政次ですが、「この里は井伊のものではなく南朝の皇子様が隠れて住んだ里」と咄嗟の機転で検地奉行の追求を言い逃れ、結果絶妙の鶴亀連携プレーとして「そなたの父上と但馬が今川家より隠し通したもの」と直虎が虎松に語る31回に見事につながります。
 
去年の真田丸では「鉄火起請」が取り上げられ話題になっていましたが、直虎が「タイムスクープハンター大河」という異名を取ることになったのも、この「検地」を1回かけて丁寧に描いたことが初めでした。
 
そして、井伊家取り潰し、という最大の危機にその伏線がここに至って生きてきます。
おじじさまが直親に語った「隠し里」の由来。
「ここは、もしものときに、井伊の民が逃げ込むところでな。かつて、今川に追い込まれた時も、わしらはここに隠れ住み、時を稼ぎ、命脈を保った。ここは文字通りの最後の砦なのじゃ」(ドラマストーリーより)
 
おじじさまが直親に語った言葉を、直虎が直親の遺児、虎松に伝え、虎松はその意味を噛み締めながら、父から伝えられた笛を吹きます。その笛の音は、井伊の美しい隠し里に響いていきます。
 

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この黄金の稲田の美しい風景!
まるでナウシカが歩む黄金の原のようで、初回の「井伊谷の少女」というタイトルにもかぶってきて前半「ジブリ大河」と言われた所以ですが、この豊かな実りの風景を井伊家の人間はもちろん、現代人である私も後世に伝えてゆきたい、戦はいやだ、そう素直に思わせてくれる非常に美しい伏線回収です。
 
その2。徳政令

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 「なんで井伊が潰れるの」「井伊はどうなるの」

という家の者の疑問に直虎は「われもこんな話は聞いたことがないゆえ」と答えますが、私も戦国ドラマを長年見続けてきた中で、城が落ちることでしか家が潰れるのは見たことがありません。

経済的理由で家が潰れるなんて!

すごい斬新!

政令にまつわる書状しか直虎には残されていないわけで、唯一の歴史的事実をドラマチックにクライマックスに持ってくる、その力技にも驚かされますが、それもこれも第13回、第14回の2回にわたって直虎が安易に徳政令を受け入れて窮地に陥る、という伏線があるからです。

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絶体絶命の危機に陥った直虎ですが、この時は竜宮小僧というか、どこからか現れた亀の出現を機に策を練り直し、逆に瀬戸村の百姓たちの信頼を得るのです。

この時にはさすがタイムスクープハンター大河!徳政令ってこんなのか!(私は大ファンです)としか思ってませんでしたが、30回で「徳政令は望まんに!」と今川の侍たちに打たれて血まみれになりながらも唱え続ける百姓たちの声が、まるでお能地謡のようで、私の心から離れません。「徳政令」という無機質な歴史用語を、人々の人生を左右する血肉の通った事実として私たちに認識させるドラマなんて、そうそうあるものではありません。

 

 その3。人買い

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 さて、いよいよ「政次の短刀の血は誰のものか」問題ですが、政次が子供を買って虎松の身代わりにしたことが、龍雲丸によって直虎に明かされます。

第16回「綿毛の案」で、初めて龍雲丸に出会った直虎は、「人が買える」という話を聞いて「よいことを聞いた!」と単純に喜びます。綿を栽培するための人手集めに窮していたからです。

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城と寺で育った直虎は、竜宮小僧として里のために働いてはいましたが、本当の人買いの残酷さは知らなかったのでしょう。人に買われるということは、生死を人に委ねるということで、直虎の無邪気な反応を見て龍雲丸は珍しいものを見るような目つきをします。

家を守るために、ひとりの少年の命が失われた。此の期に及んで、ようやく人買いというものの非情さを直虎は知るのです。

 

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 単なるタイムスクープ大河ではなく、直虎の成長物語であることが本当にすごいのですが、ここまで、史実とはまたひと違う人間ドラマとしての細かい伏線回収がこれら以外にも地雷のように仕掛けられています。

少し長くなってしまったので、続きます!(たぶん)

 

#つづきを書きました。政次にフォーカス!!

yumi-kuroda.hatenablog.com

#殿の中の人のこの回へのブログが素晴らしかったので置いておきます。癒されてくださいませ。

おんな城主 直虎 第31回「虎松の首」

 観てくださって有り難うございます。

虎松の首として、偽首を差し出した政次。その首を見て、政次のそれに至る動向を知る直虎たち。様々な思いが交錯する回でした。私は現時点で34回まで編集したものを観ていますが、、33回、34回と・・・涙なくしては観られませんでした・・・。政次の、龍雲丸の、直虎の、皆の魂が、思いが、ぎゅっと詰まっています。来週は「復活の火」です。お楽しみに。

 そして本日は、広島原爆から72年。

 犠牲者の方々に、慎んで哀悼の意を捧げます。

これからも、“知ること” “想像すること” “考えること” “話しあうこと”

忘れないようにしなければなりません。