サウダージ、いまここに存在しなくてさびしいということ。『おんな城主直虎』第34回
単なる郷愁(nostalgie、ノスタルジー)でなく、温かい家庭や両親に守られ、無邪気に楽しい日々を過ごせた過去の自分への郷愁や、大人に成長した事でもう得られない懐かしい感情を意味する言葉と言われる。だが、それ以外にも、追い求めても叶わぬもの、いわゆる『憧れ』といったニュアンスも含んでおり、簡単に説明することはできない。(wikipedeia)
去年ピエール・バルーというフランスの音楽家が亡くなりました。名画『男と女』のダバダバダ〜♪ の有名なコーラスをご存知の方もいらっしゃるでしょう。
Un Homme Et Une Femme de Claude Lelouch
「サラヴァレーベル」というこれも「サラヴァ」=「あなたに祝福を」というポルトガル語から取ったボサノヴァの音楽レーベルを設立し、晩年は日本人の奥様を得て渋谷にイベントスペースも開いています。
サウダージは、「何か」又は「誰か」から距離が離れていること、又はそれが無いことにより引き起こされる感情をいいます。言語の由来は、ラテン語で孤独を意味する”solitas, solitatis”にあります。ブラジル人がサウダージを感じる時、過去に起こったことの記憶、また過去の経験をもう一度経験したいという強い感情を抱きます。恋愛の詩や歌詞に使われることが多い言葉のひとつです。
言い伝えによると、サウダージはポルトガル人がブラジルを発見した時代に造られた言葉だということになっています。祖国や家族から遠く離れて、ブラジルに到着したポルトガル人が抱いた感情が「サウダージ」という言葉になったのでしょう。
世界で最も翻訳しにくい単語、サウダージの意味
何かがここにないことで引き起こされる感情。
ああ、これは井伊谷なんだろうなぁ。
と思いました。
直虎が碁盤の上でさまよっていたのは、
甚兵衛たちと綿毛を育て、龍雲党と材木を切り出し、
殿として治めていた井伊谷の領地。
そして、鶴や亀と駆け回っていた幼い頃の井伊谷。
和尚様から「いっしょに策を考えよう」と言われて「はい」とうれしそうに微笑む直虎は少女の顔をしていました。
井伊谷三人衆の策にはまり、瀬戸村や祝田村の領地を失った直虎。
そして政次という生まれてずっといっしょだった伴侶を失った直虎。
この後さらに武力でなく信頼という力で勝ち取った気賀の地も、龍雲党と共に失います。
井戸脇に「もたらされた」政次の辞世を見、そして気賀の危機を聞いて現生に「帰って来た」直虎ですが、心の中にはずっと失ってしまった「井伊谷」がある。
予告では「政次は生きているのだ」という直虎の言葉がありました。
政次は「行ったり、来たり」するのです。
直虎の心の中に、政次は井伊谷と共にずっと生きている。
政次は35回できっと戻ってきます。
どんな形なのかはわからないけど。
亀も、ほんとに亀の形で戻って来ましたよね。
失ってしまってさびしいだけではなく、遠くにあって会えないだけでなく、サウダージの心というのは、失ってしまったものと共にある(いつでもではない)ということではないのかなぁ、と私は考えるに至りました。
人間は得るものもあるけれど、おとなになればひたすら失ってしまうばかりです。
でも、本当にそれは失われただけなのだろうか。
目の前にはなくても、目の前には見えないけれど、たまに帰ってくることがあるのではないのだろうか。
そんな気持ちで35回を見守ろうと思います。
# ピエール・バルーの亡くなる前のインタビューを置いておきます。彼の歌を聴けば、きっと私たちも「あっち」と行ったり来たりできるのでしょう。
追伸。
ようやく「鶴のうた」が届きました。さすが、33回の台本を読んで菅野よう子さんが1週間寝込んだのち復活して書き上げた渾身の曲集。
初回限定のフォトブックの最後の見開きが、まさに「サウダージ」でもうなんと言ってよいのやら (☍﹏⁰)。。。。
直虎は凄い。政次は幸せだ。歴史に残る第33回『おんな城主直虎』〜嫌われ政次の一生〜
神回。ってよく言われるけど、これこそ神回ではなかろうか。
プロデューサーも脚本家も意図していなかった結末。
物語世界にはよくあることで、作者も思いもしなかったストーリーが勝手に動き出す。登場人物たちが、人間の意図を超えて勝手に動き始める。今まで積み上げてきたものの集大成。奇跡の着地点。
見終わったあと、私は物語世界に圧倒され、ある種の清々しさしか感じませんでした。
すごい!役者もスタッフもやりきった。神様が降りてきた。
いやー やばかった、直虎。私の中では #平清盛 の「叔父を斬る」を超えました。なんつーか直虎、清盛よりすごいわ。私は政次ロスにはならない。柴崎コウさんの直虎を見届ける。 #おんな城主直虎は最後まで見ます #おんな城主直虎 pic.twitter.com/vGrJgoTZDw
— くらくらら (@k_la_ra) 2017年8月20日
直虎が政次の死を見届けるため刑場に向かう。
それは予想がつきます。
しかし、この物語はその先をいく。
誰も予想もしなかった先をいく。
プロデューサーも脚本家も思いもしなかった先をいく。
AERAの岡本制作統括のインタビューが非常に印象的でした。
脚本の森下佳子さんも「こうしよう」と考えて、理屈の上で、あの(処刑の)シーンを決めたわけではないと思います。森下さんの中で2人の関係を紡いで、積み重ねていったらこうなってしまった。政次最期のシーンについて、森下さんと事前にそこまで細かくは打ち合わせをしていなかったんですが、私も森下さんも「処刑場に行って、直虎がお経をあげる」とかかな、と思っていました。でも、書いているうちにああいう形になったそうで。ある日の夜に初稿が私のところに送られてきて、読んだ後、大泣きしてしまい……。その後、急激に眠気が襲ってきて、そのまま寝てしまいました。これは受け止めきれない、と。
そうです。
直虎が「自分が引導を渡す」と刑場へ赴く。そこまでは予想がつきます。
直親の時は立ち会えなかった。
でも、政次は立ち会える。
でもね、わざわざ龍雲丸が救いに行ったのに政次は「本懐を遂げるため」と白の碁石だけ龍に託して返すんだよね。
この石は直虎と政次の魂の交流の証。
直虎はいつも政次の打ってきた黒の先手を白の後手で受けてきた。
次はおまえの番だ。
碁石を受け取った直虎は政次の最期の意志をどうとらえればよいのか一晩考えぬくのです。
考えに考えた末、出した結論。政次の意志に応えるためには、そして井伊にとって最善の策をとるためにはどうすればよいのか。
それが自ら小野但馬を処刑する、です。
井伊を今川の国衆ではなく、徳川の味方として認めさせる。
そのために政次が打った最善の策を、直虎は断腸の思いで受け止め、政次のさらに上を行く策で完結させる。
政次は刑場で直虎を認め、心中ではああ、これで俺は本当にこころおきなく死ねる、と思ったと思うのです。
私はこの水辺の光景を見て、折口信夫の『死者の書』の大津御子の処刑の場面を思い浮かべました。御子はその刹那に大職冠の娘を目にし、亡霊となってからも恋するのです。
はっきり聞いたのが、水の上に浮いている鴨鳥の声だった。今思ふと、待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭き声だった気がする。をを、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は、急にしめあげられるような刹那を、通った気がした。俄かに、楽な広々とした世間に出たやうな感じが来た。さうして、ほんの暫く、ふっとそう考えたきりで・・・・
空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去った
でも、われらが殿、直虎はそんな文学クラスタの甘い思惑など吹っ飛ばします。
自ら槍を取り、まっすぐ政次に向かう。
視聴者の、いえ政次の想像のさらに上を行く。
ああ、さすがはおとわだ。俺が生涯を賭けるかいのあった女だ。
政次は本当に幸福な気持ちだったと思います
呆然とする近藤家中たちに一礼し、直虎は無表情でひとり立ち去ります。
たったひとりで。
わずか2分間のできごと。
前出した岡本Pのインタビュー
私もつくりながらぐったりしてしまったんですが、音楽担当の菅野ようこさんも普段はパワー全開な方なのに、第33回の脚本を読んで10日ほど熱で寝込んでしまって……。森下さんも書き終えたときは虚脱状態でしたし、キャストもみるみる集中していきました。
(直虎役の)柴咲さんからは「台本を読んでこんなに衝撃を受けたことはない」と言われました。財前直見さんもちらっと「ものすごい愛の形よね」とおっしゃっていましたね。(高橋)一生さんからは本を読んだ感想自体は聞いていませんが、「『磔(はりつけ)にされて、槍で突かれ、血を吐いて死ぬ』なんてシーン、これまで大河ドラマにありましたっけ?」という話をしました。
六左衛門役の田中美央さんのブログにも、台本を読んでからの高揚と厳粛な気持ちが描かれています。
おんな城主 直虎 第33回「嫌われ政次の一生」
この日の撮影前後の事は良く覚えています。
「あのシーンの撮影はいつなのか?」
キャスト、スタッフ、皆、口には多く出しませんでしたが、誰もが気にしている様子がヒシヒシとスタジオ内にありました。
「いついつらしいよ」
「自分の撮影は無いのだけれど見守りに行きたいね」
「行きたい、行きたいよ」
そんな声がチラホラ聞こえるも、
「これは二人だけの世界、邪魔してはいけないよね」
と、
皆がお二方を慮り、シーンの関係者のみで静かに撮影が行われたと聞いています。
撮影後、
翌週のスタジオには、まるで上級生が卒業してしまった校舎のように、
何も変わらないのに、確実に一人分、何かが足りない、そんな空虚さを感じずにはおれませんでした。
今夜、素晴らしいものをみせて頂きました。
一生さん、本当に有難うございました。
「ふたりの世界を邪魔してはいけない」
そんな心遣いがとても尊い。
方久役のムロさんもtwitterで
そうか、昨日は政次の最期だったか、、、
— ムロツヨシ (@murotsuyoshi) 2017年8月21日
あの最期は、凄まじい、
すごい男と、殿だ、
柴咲コウさんと高橋一生さんの一世一代の名演といってよいのではないでしょうか。
演出は平清盛の「叔父を斬る」と「友の子、友の妻(義朝の最期)」の渡辺一貴さん。
最高だわ。。。
そして辞世の句。
「白黒をつけむと君をひとり待つ 天つたふ日ぞ 楽しからずや」
白黒をつけようと君をひとり待つ。夕暮れも楽しくないことがあろうか。
これが直訳。
「天つたふ 入り日さしぬれ 大夫と思へるわれも 敷袴の衣の袖は 通りて濡れぬ」
夕日がさしてくると、雄々しい男だと思っていた自分も、逢瀬に敷いた着物の袖が涙ですっかり濡れてしまったよ、という妻を恋う歌です。
「天つたふ」というのは「日」にかかる掛詞で、「入り日」を意味し、日が沈む頃、つまりは妻問いの時間のことをさすそうです。
政虎の夜な夜なの囲碁デートは、やっぱり妻問いの時間だったのですね。。。
政次の返り血を真っ白な頭巾に一滴だけ残し、白昼夢のような龍潭寺の一室で、碁盤の前にたたずむ直虎。これが過酷なる現実です。
「つづーく」
と心なしかいつもとはちょっと違って聞こえる、中村梅雀さんのナレーション。
そうなんです、直虎の物語は続くのです。
いいなずけを失い、鶴翼のつばさを失い、それでも直虎の物語は続くのです。
政次ロスなんてもったいない。
涙をふいて、しっかり赤い目を見開いて、これからも私は愛すべき井伊谷のこれからを見届ける覚悟です。
政次がひっそりと持ち帰った白い碁石。それは生涯かけて守ると誓った想い人の形代。「おんな城主直虎」第32回補足
こちら私の直虎専用ツイッターのつぶやきですが、月夜のデート碁の翌朝、直虎からの逆プロポーズ(?)を断った翌朝、なつへのプロポーズを敢行した翌朝、政次の着物のたもとからこぼれ落ちた白い碁石。
いまだかつて碁石がその想い人の存在を語ったことがあろうか!持ち帰ったならちゃんとしまっておけ!真珠のピアスか! #おんな城主直虎 pic.twitter.com/DxQ4sVBWP7
— くらくらら (@k_la_ra) 2017年8月14日
やっといちばん認めてもらいたかった政次に、遂に「もはや降りることは許されぬ」とまで言われ泣いてしまったおとわ。政次はやおら碁盤を片付け始め、うわっ 政次ついにここで主従の垣根を取っ払っていっちゃう??? とみな固唾を飲んだと思うのですが、そんな真田丸なことは起こらず。
さっさか 明るい月夜の元に碁盤を運んで行きます。満ち足りた表情の政次。
政次Xデーはこわくない!おんな城主直虎第32回「復活の火」
殿と家老の取り替えゴッコが最大のツボでした。もう死んでもいい。
直虎と政次で虎松の後見として、殿と家老で碁を打ちながら、虎松を支える亥之介や直久ら次世代ズも育て上げ、老後も碁を打ちながら「そろそろ亀が待ちきれなかろう」と共に白髪となる未来もあったろうに。
残酷で華麗なる最大の伏線回収回。おんな城主直虎第31回「虎松の首」まさつぐっ!編
政次です。
鶴丸です。
但馬です。
もう、これに尽きます。
「信じろ、おとわ」
「何を?」
と直虎は応えますが、何を、じゃないだろっ!
「徳政令はのぞまんに」の百姓たちの大合唱の中、第30回のラスト30秒から続く抜刀して直虎に刃を突きつけ「信じろ、おとわ」と切り札の幼名呼び。この31回からおそらく34回まで続く壮大なる「政次劇場」を開幕するにあたり、この31回は政次の「奸臣」としての役割をひっくり返していく大事な伏線回収回です。
小野家は井伊家より実は由緒ある家柄と言われ、井伊家の上を狙っているのではないか、と常に井伊家中から疎まれる存在です。
そんな面倒くさい家に生まれた政次は、今井家のイヌにしか見えない父を軽蔑し、自分は絶対そんなものにはならない、と幼いながら心の中で誓います。
第4回「女子にこそあれ次郎法師」では、父の政直に「これ以上井伊の目の敵になることはやめてほしい」とストレートに訴えています。
この20年後(適当)が、小野家の次期当主である甥の亥之助の第31回での政次との対峙です。
井伊家が潰れ、城を追われた後で、なぜか自分だけ井伊谷に残るように言われた亥之介は叔父の政次に「どうして小野家だけ井伊家と運命を共にしないのだ」と迫ります。
この自分の後継者にすら、本心を明かさないアンビバレンツな小野家の伝統は、先代政直 aka 吹越満と心底生き写しであります。
第5回「亀之氶帰る」での、臨終前の父・政直とおとわとの対面。おとわには「全部井伊のためにやったんだよ。誰にもわかってもらえないけど」と言いつつ、その後政次には「あいつ甘いなー」的毒舌を吐いた後、「結局おまえも俺と同じ道をたどるんだよ」と呪いをかけます。
小野政直。本気で井伊谷を小野の手にしたいと思っていたのか、それとも政次と同じように偽りの盾となって今井から井伊谷を守っていたのか。もしかしたら人質にやった瀬名さまと恋仲だったのではー とか妄想は尽きませんが、本ドラマでは息子の政次は見た目もやってることも、父親の政直そっくりですが、心の中は小野家という狭い範疇ではなく、井伊谷に命を捧げている、ということをいよいよ31回から回収していきます。
「私には次郎法師さまや亀之氶さまと育んだ幼い頃からの絆があります」
これがもうすべてなんです、わかってあげてよ、おとわ!
信じろ、おとわ!
ということで隠し里に逃れた直虎は、遂に一族に「政次は味方である」ということを告白。
これ、こんな情報開示やっちゃったら今までの但馬の血のにじむ努力が無駄になるのでは、とか最後までおとわと和尚様だけが真相を知っていた方がドラマチックなのでは、とかいろいろご意見あるかと思いますが、ホントに「但馬悪いやつ」と思っている視聴者もいるようなので、このくらいわかりやすくしてあげた方が但馬報われるかと思います。
実父を政次に殺されているというのに、この限りない六左の包容力。
高瀬の場合、乙女の直感で政次の殿への思いを勘付いてるのではないか。
母上はつる・とわの仲を幼い頃から見守っていますからね。安定のうなずき
そして次世代からの但馬への熱い信頼!
これは胸熱であった。
政次はいつも「どこで間違ったのか自分で考えるように」虎松たちに教え諭しながら囲碁の相手をしていた。敵ならばそんなしちめんどくさいことするわけがない。
虎松、ゆきの字の弟の直久、甥の亥之介の次世代たちと但馬の囲碁での交流は、第25回の「材木を抱いて飛べ」の冒頭で描かれています。
政次は、地味に龍潭寺での囲碁を通して次世代たちを育てていたのです。
ということで遂に政次奸臣説はくつがえるに至ったが、肝心の殿が疑心暗鬼!
ま。こんな悪魔の笑顔を見せられると信じてる私でさえ一抹の不安を覚えるけど。。。
美しいなー
この対比。
虎松首実検は、私は「寺子屋」とか主人のために自分の子供の首を差し出すっていう歌舞伎を思い浮かべて「まさか亥之介?」と心底思いました。でも、それだと政次が「これぞ小野家のためだ!」って言ってるのと矛盾するので、違うなと。
うきゃー
「地獄へは俺が行く」っていうのは、家臣に向けてだったのか。
しかし、前回同様クラクラしたのは、次回32回予告です。
うわー
「小野が井伊家を再興する」
これこそ若き政次が父・政直に語った小野の「まことの勝利」ではないか!
いくさ支度は、手甲と同じグレーの鉢巻。やばい、やばすぎる。
そしてこの心配顔の美しい尼姿の直虎さまと、なんだかおだやかな政次。
楽しみすぎます。待ち遠しいです!
残酷で華麗なる最大の伏線回収回。おんな城主直虎第31回「虎松の首」
「自己ワーストの視聴率10.6%!だから女大河は、、、」のメディアのバッシングに驚いて平日からこのエントリーを書いています。(結局休日にかかってますが。。)私はこんなすばらしい「女大河」はないと思っている断然擁護派だからです。
「なんで井伊が潰れるの」「井伊はどうなるの」
という家の者の疑問に直虎は「われもこんな話は聞いたことがないゆえ」と答えますが、私も戦国ドラマを長年見続けてきた中で、城が落ちることでしか家が潰れるのは見たことがありません。
経済的理由で家が潰れるなんて!
すごい斬新!
徳政令にまつわる書状しか直虎には残されていないわけで、唯一の歴史的事実をドラマチックにクライマックスに持ってくる、その力技にも驚かされますが、それもこれも第13回、第14回の2回にわたって直虎が安易に徳政令を受け入れて窮地に陥る、という伏線があるからです。
絶体絶命の危機に陥った直虎ですが、この時は竜宮小僧というか、どこからか現れた亀の出現を機に策を練り直し、逆に瀬戸村の百姓たちの信頼を得るのです。
この時にはさすがタイムスクープハンター大河!徳政令ってこんなのか!(私は大ファンです)としか思ってませんでしたが、30回で「徳政令は望まんに!」と今川の侍たちに打たれて血まみれになりながらも唱え続ける百姓たちの声が、まるでお能の地謡のようで、私の心から離れません。「徳政令」という無機質な歴史用語を、人々の人生を左右する血肉の通った事実として私たちに認識させるドラマなんて、そうそうあるものではありません。
その3。人買い
さて、いよいよ「政次の短刀の血は誰のものか」問題ですが、政次が子供を買って虎松の身代わりにしたことが、龍雲丸によって直虎に明かされます。
第16回「綿毛の案」で、初めて龍雲丸に出会った直虎は、「人が買える」という話を聞いて「よいことを聞いた!」と単純に喜びます。綿を栽培するための人手集めに窮していたからです。
城と寺で育った直虎は、竜宮小僧として里のために働いてはいましたが、本当の人買いの残酷さは知らなかったのでしょう。人に買われるということは、生死を人に委ねるということで、直虎の無邪気な反応を見て龍雲丸は珍しいものを見るような目つきをします。
家を守るために、ひとりの少年の命が失われた。此の期に及んで、ようやく人買いというものの非情さを直虎は知るのです。
単なるタイムスクープ大河ではなく、直虎の成長物語であることが本当にすごいのですが、ここまで、史実とはまたひと違う人間ドラマとしての細かい伏線回収がこれら以外にも地雷のように仕掛けられています。
少し長くなってしまったので、続きます!(たぶん)
#つづきを書きました。政次にフォーカス!!
おんな城主 直虎 第31回「虎松の首」
観てくださって有り難うございます。
虎松の首として、偽首を差し出した政次。その首を見て、政次のそれに至る動向を知る直虎たち。様々な思いが交錯する回でした。私は現時点で34回まで編集したものを観ていますが、、33回、34回と・・・涙なくしては観られませんでした・・・。政次の、龍雲丸の、直虎の、皆の魂が、思いが、ぎゅっと詰まっています。来週は「復活の火」です。お楽しみに。
そして本日は、広島原爆から72年。
犠牲者の方々に、慎んで哀悼の意を捧げます。
これからも、“知ること” “想像すること” “考えること” “話しあうこと”
忘れないようにしなければなりません。
『美女と野獣』実写版:ダン・スティーブンスって誰?
今頃ですが、実写版『美女と野獣』を観ました。
ジャン・コクトー版ではありません。
遂に日本での興行収入が百億円を突破した、ディズニーのエマ・ワトソンとダン・スティーブンス版です!
シェイクスピアについてエマじゃなくてベルにジョークを飛ばすまで人間化した野獣の青い瞳があまりに優しく美しく、CGなしで野獣&王子を演じたダン・スティーブンスって誰??
と思ったら思わぬイケメンでした。
『ダウントンアビー』のマシュー!
運命のいたずらで伯爵になる青年弁護士を演じたダン・スティーブンス自身も、パブリックスクールからケンブリッジ校に通ったエリートです。
映画『ナイト・ミュージアム/エジプト王の秘密』でも円卓の騎士のひとり、ランスロットを演じていて、鎧姿もサマになる。
謎の軍隊帰りの青年を演じる『ザ・ゲスト』
いやー この体格だったら、堂々ビーストをCGなしで演じられるわけです!
how did emma watson manage to keep a serious face the entire time pic.twitter.com/jL4jbJ1rMu
— FREDDY (@FreddyAmazin) 2017年5月24日
王子に戻った野獣が実はブサイクでもベルは愛したでしょうが、まあ、ハンサムだった方が話としてはわかりやすいですよね。
呪いをかけられた時の王子が「宮殿には美しい人しか集めなかった」と言うのですから、父を助けに単身魔窟に乗り込んだ少女が、勇敢で知性あふれるけどベルのように美しくなくブサイクだったとしたら、この寓話は成立しなかったのでしょうが。でも、たとえベルが絶世の美女でなくても、生き生きとした内面は明らかに外面に表れると私は思うので、野獣は恋したかもしれません。
そしてこの話のキモは、「バラ」であります。
『美女と野獣』そもそもの原作は、wikipedeiaによると、父親が末娘のためのバラを野獣の屋敷で摘んでしまったことにあります。
3人の娘と3人の息子を持つ商人が、町からの帰り道にある屋敷に迷い込み、そこで体を温め料理にありつくというもてなしを受ける。商人が、「ラ・ベル(フランス語で「美女」という意味の一般名詞)」と呼ばれている心の清い末娘がバラを欲しがっていたことを思い出し、庭に咲いていたバラを摘むと、彼の前に屋敷の主である野獣が現れ、「もてなしてやったのにバラを摘むとは何事だ」と言う。そして野獣は娘を要求した。末娘は身代わりとして野獣のもとに赴き、野獣は娘に慇懃に求婚するが拒否される。
父親が床に臥せっていることを知ったラ・ベルの一時帰郷の申し出に、野獣は嘆きながらも許可を与える。ラ・ベルは一週間で戻ると約束をした。2人の姉は里帰りした末娘から豪邸での生活を聞き、嫉妬して妹を引き止め、日限に間に合わないよう仕向ける。10日目の夜、ラ・ベルは野獣が死にかかっている夢を見、屋敷に戻った。
ラ・ベルは瀕死の野獣に再会し、「これで幸せに死ぬことができる」という野獣に「いいえあなたはわたしの夫になるのです」とラ・ベルが叫ぶと野獣は本来の姿に戻る。
「父親が旅に出るときに娘たちに土産は何が良いかと尋ね、二人の姉はレースとかパラソルとか贅沢品をねだり(推測)、末娘はバラ一輪のみを願う」
というのは、『シンデレラ』と同じパターンです!
そして父が娘へと持ち帰ろうとしたハシバミの枝やバラの花は、呪術的要素を持っています。ハシバミの枝はグリム版ではシンデレラにドレスやガラスの靴を降らせ、ディズニー版のバラの花は野獣の屋敷の呪いを支配します。
バラの花びらが全部散るまでに、王子が人を愛し人に愛されるという「真実の愛」を見つけなければ、王子たちにかけられた魔法が解けることはない、という縛りはグリム版にもコクトーの映画版にも見当たらず、ディズニーのアニメ版の特殊設定のようです。
ダン・スティーブンスの話からずいぶん脱線しましたが、上映中ボロボロ泣いてしまいました。
自分の命を賭けてベルを狼から守ろうとする野獣も、放置して村に逃げ帰ってしまえばメデタシメデタシなのに敢えて傷ついた野獣を連れて城に引き返すベルも、人として尊敬できる。
今まで村にある数冊の本を繰り返し読むだけだったのに、城の何万冊もあろうかという広大な図書館を見せられた時のベルの喜び。初めてシェイクスピアの話ができる相手に出会ったベルのうれしさ。本当によくわかる。
愛する人と共に見る景色が今までとは違って見える野獣の驚き。
数々の歌もすばらしく、お話が全てわかっていても観て損はしません。オススメします。