アスフォデロの野をわたる途中で

忘却の彼方にいってしまいがちな映画・音楽・本の備忘録

『美女と野獣』実写版:ダン・スティーブンスって誰?

今頃ですが、実写版『美女と野獣』を観ました。

ジャン・コクトー版ではありません。

遂に日本での興行収入が百億円を突破した、ディズニーのエマ・ワトソンとダン・スティーブンス版です!

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シェイクスピアについてエマじゃなくてベルにジョークを飛ばすまで人間化した野獣の青い瞳があまりに優しく美しく、CGなしで野獣&王子を演じたダン・スティーブンスって誰??

と思ったら思わぬイケメンでした。

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『ダウントンアビー』のマシュー!

運命のいたずらで伯爵になる青年弁護士を演じたダン・スティーブンス自身も、パブリックスクールからケンブリッジ校に通ったエリートです。

映画『ナイト・ミュージアム/エジプト王の秘密』でも円卓の騎士のひとり、ランスロットを演じていて、鎧姿もサマになる。

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謎の軍隊帰りの青年を演じる『ザ・ゲスト』

 

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いやー この体格だったら、堂々ビーストをCGなしで演じられるわけです!

 

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王子に戻った野獣が実はブサイクでもベルは愛したでしょうが、まあ、ハンサムだった方が話としてはわかりやすいですよね。

呪いをかけられた時の王子が「宮殿には美しい人しか集めなかった」と言うのですから、父を助けに単身魔窟に乗り込んだ少女が、勇敢で知性あふれるけどベルのように美しくなくブサイクだったとしたら、この寓話は成立しなかったのでしょうが。でも、たとえベルが絶世の美女でなくても、生き生きとした内面は明らかに外面に表れると私は思うので、野獣は恋したかもしれません。

 

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そしてこの話のキモは、「バラ」であります。

 

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美女と野獣』そもそもの原作は、wikipedeiaによると、父親が末娘のためのバラを野獣の屋敷で摘んでしまったことにあります。

 

3人の娘と3人の息子を持つ商人が、町からの帰り道にある屋敷に迷い込み、そこで体を温め料理にありつくというもてなしを受ける。商人が、「ラ・ベル(フランス語で「美女」という意味の一般名詞)」と呼ばれている心の清い末娘がバラを欲しがっていたことを思い出し、庭に咲いていたバラを摘むと、彼の前に屋敷の主である野獣が現れ、「もてなしてやったのにバラを摘むとは何事だ」と言う。そして野獣は娘を要求した。末娘は身代わりとして野獣のもとに赴き、野獣は娘に慇懃に求婚するが拒否される。

父親が床に臥せっていることを知ったラ・ベルの一時帰郷の申し出に、野獣は嘆きながらも許可を与える。ラ・ベルは一週間で戻ると約束をした。2人の姉は里帰りした末娘から豪邸での生活を聞き、嫉妬して妹を引き止め、日限に間に合わないよう仕向ける。10日目の夜、ラ・ベルは野獣が死にかかっている夢を見、屋敷に戻った。

ラ・ベルは瀕死の野獣に再会し、「これで幸せに死ぬことができる」という野獣に「いいえあなたはわたしの夫になるのです」とラ・ベルが叫ぶと野獣は本来の姿に戻る。

 

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父親が旅に出るときに娘たちに土産は何が良いかと尋ね、二人の姉はレースとかパラソルとか贅沢品をねだり(推測)、末娘はバラ一輪のみを願う」

というのは、『シンデレラ』と同じパターンです!

yumi-kuroda.hatenablog.com

そして父が娘へと持ち帰ろうとしたハシバミの枝やバラの花は、呪術的要素を持っています。ハシバミの枝はグリム版ではシンデレラにドレスやガラスの靴を降らせ、ディズニー版のバラの花は野獣の屋敷の呪いを支配します。

 

バラの花びらが全部散るまでに、王子が人を愛し人に愛されるという「真実の愛」を見つけなければ、王子たちにかけられた魔法が解けることはない、という縛りはグリム版にもコクトーの映画版にも見当たらず、ディズニーのアニメ版の特殊設定のようです。

 ダン・スティーブンスの話からずいぶん脱線しましたが、上映中ボロボロ泣いてしまいました。

自分の命を賭けてベルを狼から守ろうとする野獣も、放置して村に逃げ帰ってしまえばメデタシメデタシなのに敢えて傷ついた野獣を連れて城に引き返すベルも、人として尊敬できる。

今まで村にある数冊の本を繰り返し読むだけだったのに、城の何万冊もあろうかという広大な図書館を見せられた時のベルの喜び。初めてシェイクスピアの話ができる相手に出会ったベルのうれしさ。本当によくわかる。

愛する人と共に見る景色が今までとは違って見える野獣の驚き。

数々の歌もすばらしく、お話が全てわかっていても観て損はしません。オススメします。


 

手フェチとしての政次あるいは高橋一生

手フェチです。


男性はどうしても手を見てしまいます。
指は長くて細いのが理想。
全体の大きさは問いませんが、大きい方がセクシーかな。
爪はきっちり四角に切って磨いてあるのが良い。

それを思い出させたのが、『おんな城主直虎』の高橋一生さん。
手の所作が美しい!

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おとわが駿府に呼び出し!
という大危機に、脳ミソをフル回転させてる(はず)前夜の手の大アップ。
大サービスショットです。
長い指。そんなに背が高くないはずなのに、手のチカラとしては必要十二分。


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おとわが勝手に物見遊山!
後を追い駆けひと山越えてようやく追いついた茶屋で一杯。
ただの茶碗なのに名品に見える!
美しい手はもちろんですが、手甲と呼ばれるカムイ外伝みたいなテープぐるぐるもポイント高いです。だって、明らかに手の美しさを強調してますよね。

そして極め付け!


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きゃー
手が!
政次の手が柴咲コウちゃんの手を!
直虎を制しようと、とっさに出した手の指がこんなにキチンと揃ってるなんて、そうそうあることではない。
指先まで神経が行き届いたこのタッチはいったいなんなのだ。
直虎を守るために常に緊張感みなぎらせてるってことか。


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こちらはその前に駿府から直虎への死の召喚状を渡すところですが、この時に指先まで神経行き届いてるのは、まあ普通。でも美しい。


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ころんだ直虎に思わず手を差し伸べ、拒否られる政次。

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せっかく生きて帰って来たのに、愛するおとわの手を敢えて振り払う政次。

こんなに美しい手を持っている高橋一生こと政次ですが、おとわ様に手を取られることはもう一生ないのかしら。
もったいない。
実にもったいない。

三浦春馬の直親同様、痛ましいことがわかっている政次の最期ですが、せめて、差し伸べた手をおとわ様に取られることを祈ります。


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三浦春馬と高橋一成の化学反応『おんな城主直虎』

 

「ほぼ日」の森下圭子さんによる『おんな城主直虎」自作解説が非常に面白かったので、載せておきます。三浦春馬高橋一生の「役者による化学反応」によって脚本家の最初の意図とは違ったドラマに仕上がっているとのこと。

これは特に『検地がやってきた』で本来まっすぐなキラキラ王子様役の三浦春馬が「爽やかクズイケメン」として視聴者に認定され、腹に一物あるはずの高橋一生の方が「不憫なアンドレ」として一身に同情を集め、三浦春馬が非業の死を遂げるまで一種の逆転現象を起こしていたことを指すかと思います。
 
 
高橋一生演じる鶴の方が、三浦春馬演じる亀より信用できるんじゃないかと思えるドラマに仕上がっていたことに対して)
 
あ、それはね、芝居と芝居がぶつかったんですよ。わたしが書いたときの想定では、どちらかというと「直親正義」寄りに書いたんですよ。

三浦春馬さんの亀を基本的には鶴に警戒心はあるもののど真ん中のまっすぐな男に、高橋一生さんの鶴を引け目はあるものの信用のおけない男に書いているんです。最終的に、13話からの「城主編」の鶴を観てもらったらわかるんですけど、私が頭の中で動かしていた鶴は、はじめからあの「城主編」の鶴なんです。

私はそこまで難しくするつもりはなかったんですけど、仕上がったものを観て、自分もちょっと混乱するんですよ。「なんでそこで目が潤んでんの!」とか(笑)。「え、ちょっと待って、 こうなると悪いのどっちだよ!」みたいな。

あれは、私が思うよりウェットに解釈した高橋一生さんと、逆に、私が思うよりドライに解釈した三浦春馬くんが化学反応を起こした結果、と私は見ています。確認したわけではないので、あくまで妄想ですが。
 
妄想!いやー これは実に面白い話。
脚本家自身が、「あれ?自分の書いてたドラマと違う!」と感じ、これは高橋一生がいろいろな感情をカメレオンのように変化させて演じる一方、高橋春馬は思いっきり上っ面というか、爽やかな時はイヤミなくらい爽やかに、そして落ち込む時は思いっきり落ち込んでコントラストつけすぎたために、視聴者は逆に三浦春馬の方が胡散臭い、と感じてしまうという。これも私の妄想に過ぎませんが。ドラマって脚本家の手を離れて、役者や演出でどんどん変わっていくんだなぁ
第11回の『さらば愛しき人よ』での、おとわと直親の永遠の別れのシーンも、「柴咲コウ三浦春馬は本当にまた会えるかもしれないという気持ちでやっていたのかも」とおっしゃっている。
 

あれは、まぁ、実際、生きて帰ってこられないと確信しているから言えるんですよね。
あ、でも、わたしはそういうふうに書いてたけど、もしかしたら、春馬くんは「戻ってくる」という気持ちで言ってたかもしれないよ?
不思議なもんで、私が思ってもみなかった解釈をしながら、みなさんが演じることもしょっちゅうあるので、ほんと、わかんないですよ。私が書いたときは、もう戻ってくることは絶対ないだろうという気持ちで書きましたけど。だから直虎も「心得た」と言えたわけですが。演じているおふたりの気持ちは違うかもしれない。

 
あと、放映されてTwitterなんかでどんどん視聴者の解釈が付与されて、思いもかけない方向にころがっていったり。
三浦春馬クズイケメン説は、SNSなしではありえなかったもんなぁ。
 
 
でも、輝くような笑顔の後の憂い顔なんて、「この人は10年間の逃亡生活で闇を抱えざるをえなかったんだなぁ」と明らかに役に深みを与える演技で、すばらしいと私も思いました。
森下先生も以下のようにおっしゃっています。

あと、今回の『直虎』をやりながらふと思ったんですけど、春馬くん、これからは、悪い役をやったら、おもしろいんじゃないかと。
悪い三浦春馬くんが、観たい。いま、ものすごくそう思ってるんです。この人を正統派の美少年だけにしておくのは、もったいないんじゃないかと思って。すんげー悪い、悪いのに逆らいがたい悪の華みたいな美青年を一回やるべきだ(笑)。
おじさんになる前に!

 

いや、本当にこの最期の覚悟のシーンの表情は射抜かれました。
私も三浦春馬についてはイケメン以外になんの感慨ももっていませんでしたが(『わたしを離さないで』はカズオ・イシグロの原作が好きすぎて未見)「悪の華」みたいな美青年は観てみたいです。
 
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そして、柴咲コウがこんなに良いと思っていなかったので、これから年末まで本当に楽しみ。柳楽優弥も楽しみ。亀にもまた出てきてほしいな。鶴も飛んでくるのかな。

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花のような秀頼さまを鬼のようなる真田が連れて『真田丸』

真田丸について書いておこう。

 
41話目の『入城』ものすごく良かった。
全50話の残すところ10話になって、初めて主人公が主人公として動き始める。
Twitterで「いままでついてきた視聴者へのご褒美のような回」というつぶやきを見たけれど本当にそうだ。
 
38話『昌幸』で長い長い伏線の間、実質的に「主人公」だった父親の真田安房守昌幸が退場。39話でひと息ついた後、40話『幸村』で遂に「真田信繁」から伝説の「真田幸村」の名を選び取り、41話『入城』で最終章のファンタジーが動き始める。
 
大河以外のNHKのドラマは8-9話での完結が多く『ちかえもん』も9話だったけど、この最後の10話が『真田丸』の本体だ。
 
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ずっと青年のようだった堺雅人は、九度山での幽閉生活後は、一気に壮年の真田幸村へと変身する。9カ月というドラマ内での時間経過で主人公が顔付きまで変わるというのは、感動的ですらある。
 
そして、幸村の新しい主君となる豊臣秀頼の登場も、非常にワクワクさせるものだった。
 
 立派な若武者へ成長した豊臣秀頼と二条城で対面したことが、徳川家康をして「このまま秀頼を生かしておいては自分亡き後の徳川の世は危うい」と豊臣攻めを決意させたという逸話を、本当にリアルに再現してくれたこの場面。
中川大志のキラキラ感とカリスマ性が半端なく、思わず「ご無沙汰しておりまする」とまるで眼の前にいるのが信長のように平伏せざるを得なかった内野聖陽徳川家康がなんの違和感もなかった。
 
加藤清正と並んで遜色のない武者っぷり!
 
 
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中川大志といえば、あの『平清盛』で少年時代の源頼朝を演じ、マツケンの清盛と対面を果たした時の目ヂカラも非常に印象的でしたし
 
 
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 「前半は神作」と言われた朝ドラの『おひさま』でも、井上真央の子供時代の兄を演じて弟を養子に迎えに来た華族のおばあさまが乗る高級車に身体を張って立ち向かったときの凛々しさも忘れがたいものでありました。
 
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このときのおばあさまのクルマの運転手は『真田丸』の内記さんだしなー
 
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草刈正雄がホントに『平清盛』の父である平忠盛を演じた中井貴一さん以来「主人公を超えるインパクトあるパッパ」を演じてらしたので、お館様!と武田信玄を追ってあの世に行ってしまった後の喪失感を一気に18歳の中川大志が奪い去るとは!
 
いちまつの期待はしてましたが、まさかこれほど存在感のある秀頼になるとは思ってもいなかったので本当にうれしい限り。
 
最後の最後に真の主役となった堺雅人の幸村と、彼を照らす「聖なる光」にふさわしい中川大志の秀頼。 残り9話の「最終章」でのドラマが楽しみでなりません!
 
 

『シンデレラ』実写版&グリム原案: あなたが最初に触れた木の枝を

『シンデレラ』実写版について、さる飲みの席にておとぎ話の専門家である神奈川大学の村井まや子先生を相手に熱弁を奮ったらしい。(飲むと演説するクセがある、とは友人の指摘)
 

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ディズニー映画でありながら、監督がシェイクスピア劇のケネス・ブラナー、継母役が指輪シリーズのエルフの女王で『エリザベス』で英国と結婚した女王を演じたケイト・ブランシェット、シンデレラ役は『ダウントン・アビー」のリリー・ジェイムズ。
 
シェイクスピアものや『高慢と偏見』のジェーン・オースティン系に目がない私としては、断然見ておかなくちゃ!と『CUT』の記事を美容院で読んだ時からずっと思っていて、男子社会に疲れて魔法の欲しくなったある日、六本木ヒルズのレイトショーへ。
 
 
魔法がとけるSFXも面白かったけど、私はシンデレラのあるセリフにひどく感銘を受けてしまったのです。
 
それは父親(映画では継母を娶った後に亡くなってしまう設定)が外国へ商談に出かける永遠の別れの場面。
「お土産は何がいい? 二人の姉さんはパラソルとレースだったけど」
「それではお父様が旅先で最初に触れた木の枝を」
なぜそんなものを? と訊ねる父親にシンデレラはこう答えます。
「旅の途中、お父様がずっと私のことを思い出してくださるように。そして、それを持って必ず無事に帰って来てくださるように」
 
なんてすてきなセリフなんでしょう!
二人の強欲な(と言っても現代の私たちにとっては至極当然なリクエストですけれど)姉たちの「パラソル」とか「レース」といった物欲的望みと全く違うところから出てくる発想。
モノなんてどうでもいい、父親の無事な帰りのみを願っている彼女の純粋さ(現代と違い旅はとても危険なもので、実際戻ってきたのは彼女の願い通りではある一本のハシバミの枝だけ)。それを「木の枝」に託すなんとなく呪術めいた神秘。
 
こんな古典的なセリフを入れられるのは、やはりシェイクスピア役者であるケネス・ブラナーならではだと思うのです。
 
(村井まや子先生からは、「グリム版では、守護妖精ではなくてハシバミの木がドレスや靴を降らせてくれる」と伺いました。確かにここには呪術的要素があります)
 
そして将来彼女と結婚する王子様は、日常的にこのようなセリフを言われるようになるのだと考えると、なんてロマンチック! 
 
「ではシンデレラ、財務大臣との打合せに行って来るぞ」
「あなた、今朝ことし初めてのツバメを見ましたわ。幸運を大臣にも分けて差し上げてください」
「そうか。伝えよう。(よくわかってないが、なんかイイコトありそうな気がしてくる)」
 
その時代の肉屋夫婦だったら、そんな悠長なこと言ってられないかもしれないけれど、現代に生きる私たちは王族でも食べられなかったアイスクリームも毎食でも召し上がれるのですから、そのくらいの遊びが日常生活にあってもいいはずです。
 
ベストセラー『フランス人は10着しか服を持たない』で思わず笑ってしまったのは、著者のカリフォルニア出身のアメリカ女性が誰もが想像する絵に描いたような西海岸的生活を送っていたこと。この本はパリの現代に生きる貴族のシックな暮らしについて書かれていますが、「アメリカ人ってマジにそんなことやってるの」という対比の方がはるかに興味深かったです。もちろん現代の日本人がどっちに似てるかと言えば、アメリカ人の方ですけど。ジムに通いながらジャンクフードを食べる、家にいる時や近所に出かける時はジャージ着用、いざという勝負の時だけ極端に無理した服を着る。
 
ケネス・ブラナーは英国人なので、フランス人とは昔からいがみ合ってきた仲ではありますが、でも新大陸と旧大陸でどちらが親近感湧くかって、断然後者だと思います。
 
太平洋戦争後、アメリカからの文化的支配を長らく受け続けている日本ですが、『フランス人は10着しか服を持たない』をアメリカ人といっしょに読んでいる場合ではないのです。
キモノを10着も持っていれば帯やら羽織やら雪駄やらアクセサリー類でバリエーションも付け放題、フランス人とはまた違う文化的知恵の全てを、すっかり忘れてしまったように見える日本。もったいない。
 
そして私が感動したシンデレラの父親へのセリフですが、万葉集の昔から夫婦で歌を詠み合っていたのですから、もっと気の利いたことを言えるはずです。
 
ディズニー映画を観て、まさかこんなことを考えるとは思っていませんでしたが、私だったら、旅立つ大切な人に何を願うだろうか。
 
ずっと考えてますが、まだ思いつきません(笑)
 
 
 
 

Dior and I 『ディオールと私』

もしかして4月で終わっちゃうんじゃないかと思い、とりあえずギリギリに観に行きました『ディオールと私』。

面白かった!

オートクチュールという特殊産業の裏側も興味深かったけど、チームでの創作ということを非常に考えさせられました。

ジル・サンダーというミニマムなブランドのメンズプレタポルテをやっていたラフ・シモンズというベルギーのデザイナーが、ディオールという今やシャネルと唯一オートクチュールという前近代的な創作活動を担うニ大メゾンのデザイナーに招聘されるところから始まる、ドキュメンタリー。

ジル・サンダーディオールも好き、という自分でも矛盾しておりさらに今回のラフの起用も同じ矛盾を孕んでいるというファッションフリーク的興味と、デザイナーとお針子集団がどのような過程で仕事していくのか、その創作をどうビジネスに結びつけるのか、という産業的興味もあって、前売り券まで買っていたのに結局終了間際。混んでるかと思ったけど、私の好きな6列目より前は全て空いていた。この先地方を回るようだけど大丈夫なんだろうか。勝手なお世話か w

まず、ラフ・シモンズの仕事のやり方が面白かったです。
彼はデザイン画をいっさい描かない。コンセプトを文字でいくつか挙げて、そのコンセプトに従ってアシスタントのデザイナーたちが実際にデザイン画を描いていく。
この手法は他のメゾンもやってるようで、私の中にあった「デザイン画を何千枚も描いてそれを弟子たちがカタチにしていく」という古典的ファッションデザイナーのイメージはガラガラと崩れました。
ただし、実際の生地作りから、服の形になってからの修正まで、実に細かくディレクションしていて、最後には糸を通した針まで握っていたので、ただの観念だけの人ではありません。
そこは、最終的に職人のお針子たちにも信用された所以かと思いました。

唯一、彼がキレたのは、いよいよ最終形の服ができあがってくる大切な日に、お針子チームのトップが、

ブラームスはお好き?/サガン★朝吹登美子訳

ディオールはお好き?』ではなく、『私とディオール』まだ見れてないのですが、この前売り券を買うとメモと記念上映を1本千円で見られる権利がもらえるというので、買って観たうちの1本が『さよならをもう一度』(Good-bye Again)

原作のサガンの『AIMEZ-VOUS  BRAHMS‥‥』(ブラームスはお好き?)の方が全然タイトルとして良いと思うのですが。

イヴ・モンタンが渋い盛りで出ているのに、アメリカ映画なので仕方ないのか。

こちらの映像は、英語からさらにイタリア語になってるので、パリの風景でイタリア映画が演じられてる不思議なことになってますが、冒頭のブラームス交響曲第三番第三楽章と、バーグマンが街角でタクシーを拾うところ、モンタンが自分の車に乗り込むところ、アンソニー・パーキンスが凱旋門を背にオープンカーを運転しているところ、が次々と映し出されてこれからの120分にワクワクさせられます。

イングリッド・バーグマンは当時46歳ですが、原作ではパリでインテリアデザイナーとして働く39歳の主人公を演じています。彼女が映画の中で着る衣装が、サン・ローラン最後のディオールへのデザイン作。

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うむ、このスーツより、なぜかバーグマンが仕事から家に戻ってモンタンと食事に出かける前に着替えた部屋着のローブの方が印象に残りました。

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 ストライプで色はわからないけど、無難にゴールドっぽいのかな、光沢があるのでシルクでしょうか。仕事着→部屋着→ドレス っていちいち着替えるところが、昔っぽくて良いなー と思いました。

映画は冗長なんだけど、バーグマン、モンタンと三角関係を演じるアンソニー・パーキンスの存在が効いてて、なんとか最後まで持たせます。

サガン原作なのにアメリカ映画、っていうのがいまいちの原因なんじゃないかと思って原作を読んでみました。(躁鬱っぽいパーキンスは良かったけど。ほんと、そこだけがハリウッドで作られて良かった点)

「ロジェは自宅の前に車をおくと、かなり長いこと歩いた。大きく息をすって、少しずつ歩幅をのばしていった。いい気持ちだった。ポールに会うたびに、いい気持になるのだった。かれはポールしか愛していなかった。今夜だけは、別れぎわに、彼女が悲しんでいるらしいと感じたが、なんといっていいのかわからなかったのである。ポールは漠然とかれになにかを求めていた。かれがポールに与えられないなにかを、かれがだれにも決して与えることができなかったなにかを・・・かれはそのことをよく知っていた。

たぶん、彼女のそばに残って、一緒に寝るべきだったかもしれなかった。それが女を安心させる、いちばんいい方法だった。しかし、かれは歩きたかったのだ。夜の町を歩きまわり、ぶらついてみたかった。石畳の上の自分の足音を聞き、すみずみまでも知っているこの都会を見まもりたかった、そして、もしかしたら、夜のアヴァンチュールに出会うかもしれない。かれは河岸のはずれに見える明りにむかって歩きだした。」

おお!イヴ・モンタン(ロジェ)はそういう気持ちだったのか!

映画の中では、ただ女たらしでバーグマン(ポール)が若いパーキンスに走って初めて彼女の重要さがわかる、みたいな身勝手な独身貴族のようにしか見えませんでしたが、このロジェの気持ちは理解できる。だからこそ、彼は魅力的なのだし。

私は立場的に女主人公に感情移入していいはずですが、なんだか、夜のパリの街をひとりでぷらぷら歩きたい彼の自由さの方が共感できます。

当時24歳のサガンがこういった結婚しない男性の心情や、15歳も上の40代にさしかかろうとする独身女性の複雑な気持ちを表現し得ることは驚きです。

なんだかフランスの田辺聖子みたい。

私はなぜかサガンボーヴォワールと同じ引き出しに入っていて、19歳で衝撃のデビューを飾ったという『悲しみよこんにちは』も読んだことはなかったのですが、やはり一種の天才なのだと思います。朝吹登美子さんの訳もすばらしい。

フランス語でも読んでみようかな。