『美女と野獣』実写版:ダン・スティーブンスって誰?
今頃ですが、実写版『美女と野獣』を観ました。
ジャン・コクトー版ではありません。
遂に日本での興行収入が百億円を突破した、ディズニーのエマ・ワトソンとダン・スティーブンス版です!
シェイクスピアについてエマじゃなくてベルにジョークを飛ばすまで人間化した野獣の青い瞳があまりに優しく美しく、CGなしで野獣&王子を演じたダン・スティーブンスって誰??
と思ったら思わぬイケメンでした。
『ダウントンアビー』のマシュー!
運命のいたずらで伯爵になる青年弁護士を演じたダン・スティーブンス自身も、パブリックスクールからケンブリッジ校に通ったエリートです。
映画『ナイト・ミュージアム/エジプト王の秘密』でも円卓の騎士のひとり、ランスロットを演じていて、鎧姿もサマになる。
謎の軍隊帰りの青年を演じる『ザ・ゲスト』
いやー この体格だったら、堂々ビーストをCGなしで演じられるわけです!
how did emma watson manage to keep a serious face the entire time pic.twitter.com/jL4jbJ1rMu
— FREDDY (@FreddyAmazin) 2017年5月24日
王子に戻った野獣が実はブサイクでもベルは愛したでしょうが、まあ、ハンサムだった方が話としてはわかりやすいですよね。
呪いをかけられた時の王子が「宮殿には美しい人しか集めなかった」と言うのですから、父を助けに単身魔窟に乗り込んだ少女が、勇敢で知性あふれるけどベルのように美しくなくブサイクだったとしたら、この寓話は成立しなかったのでしょうが。でも、たとえベルが絶世の美女でなくても、生き生きとした内面は明らかに外面に表れると私は思うので、野獣は恋したかもしれません。
そしてこの話のキモは、「バラ」であります。
『美女と野獣』そもそもの原作は、wikipedeiaによると、父親が末娘のためのバラを野獣の屋敷で摘んでしまったことにあります。
3人の娘と3人の息子を持つ商人が、町からの帰り道にある屋敷に迷い込み、そこで体を温め料理にありつくというもてなしを受ける。商人が、「ラ・ベル(フランス語で「美女」という意味の一般名詞)」と呼ばれている心の清い末娘がバラを欲しがっていたことを思い出し、庭に咲いていたバラを摘むと、彼の前に屋敷の主である野獣が現れ、「もてなしてやったのにバラを摘むとは何事だ」と言う。そして野獣は娘を要求した。末娘は身代わりとして野獣のもとに赴き、野獣は娘に慇懃に求婚するが拒否される。
父親が床に臥せっていることを知ったラ・ベルの一時帰郷の申し出に、野獣は嘆きながらも許可を与える。ラ・ベルは一週間で戻ると約束をした。2人の姉は里帰りした末娘から豪邸での生活を聞き、嫉妬して妹を引き止め、日限に間に合わないよう仕向ける。10日目の夜、ラ・ベルは野獣が死にかかっている夢を見、屋敷に戻った。
ラ・ベルは瀕死の野獣に再会し、「これで幸せに死ぬことができる」という野獣に「いいえあなたはわたしの夫になるのです」とラ・ベルが叫ぶと野獣は本来の姿に戻る。
「父親が旅に出るときに娘たちに土産は何が良いかと尋ね、二人の姉はレースとかパラソルとか贅沢品をねだり(推測)、末娘はバラ一輪のみを願う」
というのは、『シンデレラ』と同じパターンです!
そして父が娘へと持ち帰ろうとしたハシバミの枝やバラの花は、呪術的要素を持っています。ハシバミの枝はグリム版ではシンデレラにドレスやガラスの靴を降らせ、ディズニー版のバラの花は野獣の屋敷の呪いを支配します。
バラの花びらが全部散るまでに、王子が人を愛し人に愛されるという「真実の愛」を見つけなければ、王子たちにかけられた魔法が解けることはない、という縛りはグリム版にもコクトーの映画版にも見当たらず、ディズニーのアニメ版の特殊設定のようです。
ダン・スティーブンスの話からずいぶん脱線しましたが、上映中ボロボロ泣いてしまいました。
自分の命を賭けてベルを狼から守ろうとする野獣も、放置して村に逃げ帰ってしまえばメデタシメデタシなのに敢えて傷ついた野獣を連れて城に引き返すベルも、人として尊敬できる。
今まで村にある数冊の本を繰り返し読むだけだったのに、城の何万冊もあろうかという広大な図書館を見せられた時のベルの喜び。初めてシェイクスピアの話ができる相手に出会ったベルのうれしさ。本当によくわかる。
愛する人と共に見る景色が今までとは違って見える野獣の驚き。
数々の歌もすばらしく、お話が全てわかっていても観て損はしません。オススメします。
手フェチとしての政次あるいは高橋一生
三浦春馬と高橋一成の化学反応『おんな城主直虎』
「ほぼ日」の森下圭子さんによる『おんな城主直虎」自作解説が非常に面白かったので、載せておきます。三浦春馬と高橋一生の「役者による化学反応」によって脚本家の最初の意図とは違ったドラマに仕上がっているとのこと。
しかしこの白々しさ、でも結果これがよかったよ。 てかこれしか無いよ。そしてキョトンの鶴かわいい。#おんな城主直虎 pic.twitter.com/ota9XdrTuV
— 橘 (@Skyanariwoe) 2017年2月19日
あ、それはね、芝居と芝居がぶつかったんですよ。わたしが書いたときの想定では、どちらかというと「直親正義」寄りに書いたんですよ。
三浦春馬さんの亀を基本的には鶴に警戒心はあるもののど真ん中のまっすぐな男に、高橋一生さんの鶴を引け目はあるものの信用のおけない男に書いているんです。最終的に、13話からの「城主編」の鶴を観てもらったらわかるんですけど、私が頭の中で動かしていた鶴は、はじめからあの「城主編」の鶴なんです。
私はそこまで難しくするつもりはなかったんですけど、仕上がったものを観て、自分もちょっと混乱するんですよ。「なんでそこで目が潤んでんの!」とか(笑)。「え、ちょっと待って、 こうなると悪いのどっちだよ!」みたいな。
あれは、私が思うよりウェットに解釈した高橋一生さんと、逆に、私が思うよりドライに解釈した三浦春馬くんが化学反応を起こした結果、と私は見ています。確認したわけではないので、あくまで妄想ですが。
あれは、まぁ、実際、生きて帰ってこられないと確信しているから言えるんですよね。
あ、でも、わたしはそういうふうに書いてたけど、もしかしたら、春馬くんは「戻ってくる」という気持ちで言ってたかもしれないよ?
不思議なもんで、私が思ってもみなかった解釈をしながら、みなさんが演じることもしょっちゅうあるので、ほんと、わかんないですよ。私が書いたときは、もう戻ってくることは絶対ないだろうという気持ちで書きましたけど。だから直虎も「心得た」と言えたわけですが。演じているおふたりの気持ちは違うかもしれない。
あと、今回の『直虎』をやりながらふと思ったんですけど、春馬くん、これからは、悪い役をやったら、おもしろいんじゃないかと。
悪い三浦春馬くんが、観たい。いま、ものすごくそう思ってるんです。この人を正統派の美少年だけにしておくのは、もったいないんじゃないかと思って。すんげー悪い、悪いのに逆らいがたい悪の華みたいな美青年を一回やるべきだ(笑)。
おじさんになる前に!
いや、本当にこの最期の覚悟のシーンの表情は射抜かれました。
おひめさまと まほうにかけられたかめは みつめあいました #おんな城主直虎
— ルルフ (@hervorruf) 2017年4月15日
的な pic.twitter.com/ZOBLyp2H3P
花のような秀頼さまを鬼のようなる真田が連れて『真田丸』
真田丸について書いておこう。
『シンデレラ』実写版&グリム原案: あなたが最初に触れた木の枝を
Dior and I 『ディオールと私』
ブラームスはお好き?/サガン★朝吹登美子訳
『ディオールはお好き?』ではなく、『私とディオール』まだ見れてないのですが、この前売り券を買うとメモと記念上映を1本千円で見られる権利がもらえるというので、買って観たうちの1本が『さよならをもう一度』(Good-bye Again)
原作のサガンの『AIMEZ-VOUS BRAHMS‥‥』(ブラームスはお好き?)の方が全然タイトルとして良いと思うのですが。
イヴ・モンタンが渋い盛りで出ているのに、アメリカ映画なので仕方ないのか。
こちらの映像は、英語からさらにイタリア語になってるので、パリの風景でイタリア映画が演じられてる不思議なことになってますが、冒頭のブラームスの交響曲第三番第三楽章と、バーグマンが街角でタクシーを拾うところ、モンタンが自分の車に乗り込むところ、アンソニー・パーキンスが凱旋門を背にオープンカーを運転しているところ、が次々と映し出されてこれからの120分にワクワクさせられます。
イングリッド・バーグマンは当時46歳ですが、原作ではパリでインテリアデザイナーとして働く39歳の主人公を演じています。彼女が映画の中で着る衣装が、サン・ローラン最後のディオールへのデザイン作。
うむ、このスーツより、なぜかバーグマンが仕事から家に戻ってモンタンと食事に出かける前に着替えた部屋着のローブの方が印象に残りました。
ストライプで色はわからないけど、無難にゴールドっぽいのかな、光沢があるのでシルクでしょうか。仕事着→部屋着→ドレス っていちいち着替えるところが、昔っぽくて良いなー と思いました。
映画は冗長なんだけど、バーグマン、モンタンと三角関係を演じるアンソニー・パーキンスの存在が効いてて、なんとか最後まで持たせます。
サガン原作なのにアメリカ映画、っていうのがいまいちの原因なんじゃないかと思って原作を読んでみました。(躁鬱っぽいパーキンスは良かったけど。ほんと、そこだけがハリウッドで作られて良かった点)
「ロジェは自宅の前に車をおくと、かなり長いこと歩いた。大きく息をすって、少しずつ歩幅をのばしていった。いい気持ちだった。ポールに会うたびに、いい気持になるのだった。かれはポールしか愛していなかった。今夜だけは、別れぎわに、彼女が悲しんでいるらしいと感じたが、なんといっていいのかわからなかったのである。ポールは漠然とかれになにかを求めていた。かれがポールに与えられないなにかを、かれがだれにも決して与えることができなかったなにかを・・・かれはそのことをよく知っていた。
たぶん、彼女のそばに残って、一緒に寝るべきだったかもしれなかった。それが女を安心させる、いちばんいい方法だった。しかし、かれは歩きたかったのだ。夜の町を歩きまわり、ぶらついてみたかった。石畳の上の自分の足音を聞き、すみずみまでも知っているこの都会を見まもりたかった、そして、もしかしたら、夜のアヴァンチュールに出会うかもしれない。かれは河岸のはずれに見える明りにむかって歩きだした。」
おお!イヴ・モンタン(ロジェ)はそういう気持ちだったのか!
映画の中では、ただ女たらしでバーグマン(ポール)が若いパーキンスに走って初めて彼女の重要さがわかる、みたいな身勝手な独身貴族のようにしか見えませんでしたが、このロジェの気持ちは理解できる。だからこそ、彼は魅力的なのだし。
私は立場的に女主人公に感情移入していいはずですが、なんだか、夜のパリの街をひとりでぷらぷら歩きたい彼の自由さの方が共感できます。
当時24歳のサガンがこういった結婚しない男性の心情や、15歳も上の40代にさしかかろうとする独身女性の複雑な気持ちを表現し得ることは驚きです。
なんだかフランスの田辺聖子みたい。
私はなぜかサガンはボーヴォワールと同じ引き出しに入っていて、19歳で衝撃のデビューを飾ったという『悲しみよこんにちは』も読んだことはなかったのですが、やはり一種の天才なのだと思います。朝吹登美子さんの訳もすばらしい。
フランス語でも読んでみようかな。