『どろろ』2019年版の「叶うなら、遠くまで」
手塚漫画で我が最愛の『どろろ』の最初で最後の平成版アニメが2019年1月7日に始まった。
Dororo Pilot (1968) | Dororo (2019)
— PurpleGeth (@PurpleGeth) 2019年1月15日
Same scene. Almost 50 years later. pic.twitter.com/2FuQpmMApY
戯けて笑うのは この道が暗いから
灯りを灯すのに 僕がいるでしょう
さよならごっこ 慣れたもんさ
でも手を振ったら泣いちゃった
僕らの真っ赤な悲しみが
暮れる 暮れる そして夜が来る
当たり前にやってくる明日なら
生きたいなんて言わなかった
よせばいいのに夢見てしまう
未来 未来 君のせいなんだ
アニメのキャッチコピー「叶うなら、遠くまで」というのがまた連動して泣けるんだよねー
「叶うなら」って結局「叶わない」ことを前提としているわけでしょう?
原作の百鬼丸は「どこかに幸せな国があるかも」と育ての親の寿海と別れて魔物退治の旅に出るわけだけど、醍醐パッパが言ったように現世はどこも地獄。
でも。
夢見たいよね。
あきらめてたんだけど「もしかしたらかなうのかもしれない」って思わせてくれる存在が、百鬼丸にとっても、どろろにとっても、お互いだったんだよね。
百鬼丸もどろろも「共同体」から明らかにはみ出た存在で、百鬼丸がいくら魔物を退治しようが、そのおかげで村に平和が訪れようが、結局は村人から「バケモノ」「乞食」と石もて追われてしまう。
(本日放送予定の「万代」はまさにそういう話)
子供の頃、クラスメイトに馴染めなかった私にとっても、非常に切実なテーマだった。もちろん、川辺の焚き火の側で寝る百鬼丸に金小僧が「いらないかぁ」と囁くシーンなんかは純粋にその怪しさにどきどきして読んでましたけど。
そして、たとえ48の魔物(今回は12)を倒したところで、そしてもともとの自分の身体を全て取り戻したところで、百鬼丸はそれからどうするのだろう、どこに行くのだろう。どろろと別れ、たったひとり空白の一本道を歩いていく、百鬼丸の終わりそうにもない孤独を、子供だった私は呆然と見送るしかなかった。そして手塚先生は、「続きを見たい」という私の願いも空しく、百鬼丸の行き先を描くこともなく、逝ってしまった。
今回、PVでは、どろろと百鬼丸が二人で黄金の道を歩いていく姿が最後に描かれている。
これから24話、ばんもんがつらい、おっかちゃんもつらい、イタチもつらい、みおもつらい、多宝丸もつらい、辛いことしか思い出せない二人の道行ですが、美しい風景(墨で描いたものにPhotoshopで彩色しているそうです)、スタイリッシュな戦闘シーン(百鬼丸が橋桁を縦横無尽に駆けるさまは圧巻)、モブでもおろそかにしない演出(いずれも喰われてしまう産婆や3人組)、こまかいフォロー(琵琶法師が杖を探すシーン、百鬼丸と同じ「見え方」を提示する一瞬のカット)、そして浅田弘幸さんによるキャラクターデザイン、女王蜂&azarashiの音楽などなど、手塚先生の名作が現代のスタッフによってあざやかに立ち上がったことがうれしすぎて、結末がどうなろうと、最後まで見届けたいと思うのです。
#舞い上がりすぎてて最後になりましたが、脚本は特撮の小林靖子さん、監督はわが愛する『ハンター×ハンター』そして『るろうに剣心』の古橋一浩さん!
どろろ Dororo Short documentary 1/13「魂の鼓動」古橋一浩×小林靖子
どうりで百鬼丸のアクションは抜刀斎もしくはクロロだわー
小林靖子脚本は昔の「仮面ライダー龍騎」しか見てないけど、犯罪者がライダーのひとりになったり、主人公が死んじゃったり、信じられない展開の連続。
これはもう泣きながらついていくしかない!
ちなみに第1話で取り戻したパーツは「皮膚」。
こいつも斬新だ!