アスフォデロの野をわたる途中で

忘却の彼方にいってしまいがちな映画・音楽・本の備忘録

残酷で華麗なる最大の伏線回収回。おんな城主直虎第31回「虎松の首」

「自己ワーストの視聴率10.6%!だから女大河は、、、」のメディアのバッシングに驚いて平日からこのエントリーを書いています。(結局休日にかかってますが。。)私はこんなすばらしい「女大河」はないと思っている断然擁護派だからです。

 もはやテレビの視聴率やマスメディアの記事に一喜一憂する根拠もないし価値もない。それはわかっている。それでもかつての巨大メディアのニュースの見出しを見て「そっか直虎面白くないんだ」と思う人がいるくらいは影響力があると思っています。それは悔しいです。だからこのようなブログという個人でも発信できる手段がある以上、微力ながら発信しようと思います。
 
つか、この今をときめく高橋一生が血塗られた短刀片手に「差し出せ」の字幕背負ってて面白くないわけな家老が!
 
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第31回への「地獄へは俺が行く」の予告を見て遂に政次Xデー本編が始まったか、これからは1回たりとも見逃せぬ!と心震わせた私は実はTVを持っていないので、毎日曜日本放映終了直後21時解禁のオンデマンド(もちろん有料)を心待ちにしています。私は結構IT系に特化している民なのです。視聴率はTVを持たない民は母数からも除外してるので、視聴率世界においては毎週有料で見ている私もこの世に存在していないも同じ。なんて理不尽な世界だ。
 
そして中世から近世への無茶苦茶理不尽な戦国の世界に生きる、名もない人々を「なんで戦国の三傑が出ないんだ?」(いや出てはいるんですが・・・)と言われながら地味に地道に30週に渡って描いてきた「おんな城主直虎」
 
第31回『虎松の首』は、この予告の高橋一生 aka 但馬守政次の短刀の鮮血はいったい誰のものなのか?まさか虎松の首??
ということが焦点となったわけですが、むしろ今後最大のクライマックスに向かうにあたり、1回目から30回目までコツコツと積み上げてきた伏線の壮大な回収回になったのではないか、というのが私の印象です。
 
その1。井伊の隠し里

 

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ああ、この政次の笑顔、次郎に寄り添う直親、豪快に笑うおじじさま、美しい井伊の隠し里。次郎の後ろの二人は既に亡く、最後の一人さえももうすぐ失われてしまう、という事実(フィクションだが史実でもあるな)だけで泣けてきます。
 
この懐かしい風景から8年後(えったったの8年??)寿桂尼の遺言により遂に百姓たちへの徳政令を受け入れ、その見返りに方久に莫大な借金を返さなければいけなくなった井伊家は財政的に破綻し、城を今川に明け渡さずをえなくなります。ひとまず「川名の隠し里」に身を隠すことした直虎以下の井伊家。
 

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第7回「検地がやってきた」 では、自己申告制「指出」に敢えて書かなかった隠し里を直親からの政次への無茶振りでみごと隠し通した井伊家を描いています。
 
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「この里は井伊のものではないのだろう」と直親から打合せなく振られ「なに言ってんの」ってプチおこの政次ですが、「この里は井伊のものではなく南朝の皇子様が隠れて住んだ里」と咄嗟の機転で検地奉行の追求を言い逃れ、結果絶妙の鶴亀連携プレーとして「そなたの父上と但馬が今川家より隠し通したもの」と直虎が虎松に語る31回に見事につながります。
 
去年の真田丸では「鉄火起請」が取り上げられ話題になっていましたが、直虎が「タイムスクープハンター大河」という異名を取ることになったのも、この「検地」を1回かけて丁寧に描いたことが初めでした。
 
そして、井伊家取り潰し、という最大の危機にその伏線がここに至って生きてきます。
おじじさまが直親に語った「隠し里」の由来。
「ここは、もしものときに、井伊の民が逃げ込むところでな。かつて、今川に追い込まれた時も、わしらはここに隠れ住み、時を稼ぎ、命脈を保った。ここは文字通りの最後の砦なのじゃ」(ドラマストーリーより)
 
おじじさまが直親に語った言葉を、直虎が直親の遺児、虎松に伝え、虎松はその意味を噛み締めながら、父から伝えられた笛を吹きます。その笛の音は、井伊の美しい隠し里に響いていきます。
 

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この黄金の稲田の美しい風景!
まるでナウシカが歩む黄金の原のようで、初回の「井伊谷の少女」というタイトルにもかぶってきて前半「ジブリ大河」と言われた所以ですが、この豊かな実りの風景を井伊家の人間はもちろん、現代人である私も後世に伝えてゆきたい、戦はいやだ、そう素直に思わせてくれる非常に美しい伏線回収です。
 
その2。徳政令

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 「なんで井伊が潰れるの」「井伊はどうなるの」

という家の者の疑問に直虎は「われもこんな話は聞いたことがないゆえ」と答えますが、私も戦国ドラマを長年見続けてきた中で、城が落ちることでしか家が潰れるのは見たことがありません。

経済的理由で家が潰れるなんて!

すごい斬新!

政令にまつわる書状しか直虎には残されていないわけで、唯一の歴史的事実をドラマチックにクライマックスに持ってくる、その力技にも驚かされますが、それもこれも第13回、第14回の2回にわたって直虎が安易に徳政令を受け入れて窮地に陥る、という伏線があるからです。

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絶体絶命の危機に陥った直虎ですが、この時は竜宮小僧というか、どこからか現れた亀の出現を機に策を練り直し、逆に瀬戸村の百姓たちの信頼を得るのです。

この時にはさすがタイムスクープハンター大河!徳政令ってこんなのか!(私は大ファンです)としか思ってませんでしたが、30回で「徳政令は望まんに!」と今川の侍たちに打たれて血まみれになりながらも唱え続ける百姓たちの声が、まるでお能地謡のようで、私の心から離れません。「徳政令」という無機質な歴史用語を、人々の人生を左右する血肉の通った事実として私たちに認識させるドラマなんて、そうそうあるものではありません。

 

 その3。人買い

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 さて、いよいよ「政次の短刀の血は誰のものか」問題ですが、政次が子供を買って虎松の身代わりにしたことが、龍雲丸によって直虎に明かされます。

第16回「綿毛の案」で、初めて龍雲丸に出会った直虎は、「人が買える」という話を聞いて「よいことを聞いた!」と単純に喜びます。綿を栽培するための人手集めに窮していたからです。

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城と寺で育った直虎は、竜宮小僧として里のために働いてはいましたが、本当の人買いの残酷さは知らなかったのでしょう。人に買われるということは、生死を人に委ねるということで、直虎の無邪気な反応を見て龍雲丸は珍しいものを見るような目つきをします。

家を守るために、ひとりの少年の命が失われた。此の期に及んで、ようやく人買いというものの非情さを直虎は知るのです。

 

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 単なるタイムスクープ大河ではなく、直虎の成長物語であることが本当にすごいのですが、ここまで、史実とはまたひと違う人間ドラマとしての細かい伏線回収がこれら以外にも地雷のように仕掛けられています。

少し長くなってしまったので、続きます!(たぶん)

 

#つづきを書きました。政次にフォーカス!!

yumi-kuroda.hatenablog.com

#殿の中の人のこの回へのブログが素晴らしかったので置いておきます。癒されてくださいませ。

おんな城主 直虎 第31回「虎松の首」

 観てくださって有り難うございます。

虎松の首として、偽首を差し出した政次。その首を見て、政次のそれに至る動向を知る直虎たち。様々な思いが交錯する回でした。私は現時点で34回まで編集したものを観ていますが、、33回、34回と・・・涙なくしては観られませんでした・・・。政次の、龍雲丸の、直虎の、皆の魂が、思いが、ぎゅっと詰まっています。来週は「復活の火」です。お楽しみに。

 そして本日は、広島原爆から72年。

 犠牲者の方々に、慎んで哀悼の意を捧げます。

これからも、“知ること” “想像すること” “考えること” “話しあうこと”

忘れないようにしなければなりません。

 

『美女と野獣』実写版:ダン・スティーブンスって誰?

今頃ですが、実写版『美女と野獣』を観ました。

ジャン・コクトー版ではありません。

遂に日本での興行収入が百億円を突破した、ディズニーのエマ・ワトソンとダン・スティーブンス版です!

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シェイクスピアについてエマじゃなくてベルにジョークを飛ばすまで人間化した野獣の青い瞳があまりに優しく美しく、CGなしで野獣&王子を演じたダン・スティーブンスって誰??

と思ったら思わぬイケメンでした。

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『ダウントンアビー』のマシュー!

運命のいたずらで伯爵になる青年弁護士を演じたダン・スティーブンス自身も、パブリックスクールからケンブリッジ校に通ったエリートです。

映画『ナイト・ミュージアム/エジプト王の秘密』でも円卓の騎士のひとり、ランスロットを演じていて、鎧姿もサマになる。

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謎の軍隊帰りの青年を演じる『ザ・ゲスト』

 

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いやー この体格だったら、堂々ビーストをCGなしで演じられるわけです!

 

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王子に戻った野獣が実はブサイクでもベルは愛したでしょうが、まあ、ハンサムだった方が話としてはわかりやすいですよね。

呪いをかけられた時の王子が「宮殿には美しい人しか集めなかった」と言うのですから、父を助けに単身魔窟に乗り込んだ少女が、勇敢で知性あふれるけどベルのように美しくなくブサイクだったとしたら、この寓話は成立しなかったのでしょうが。でも、たとえベルが絶世の美女でなくても、生き生きとした内面は明らかに外面に表れると私は思うので、野獣は恋したかもしれません。

 

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そしてこの話のキモは、「バラ」であります。

 

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美女と野獣』そもそもの原作は、wikipedeiaによると、父親が末娘のためのバラを野獣の屋敷で摘んでしまったことにあります。

 

3人の娘と3人の息子を持つ商人が、町からの帰り道にある屋敷に迷い込み、そこで体を温め料理にありつくというもてなしを受ける。商人が、「ラ・ベル(フランス語で「美女」という意味の一般名詞)」と呼ばれている心の清い末娘がバラを欲しがっていたことを思い出し、庭に咲いていたバラを摘むと、彼の前に屋敷の主である野獣が現れ、「もてなしてやったのにバラを摘むとは何事だ」と言う。そして野獣は娘を要求した。末娘は身代わりとして野獣のもとに赴き、野獣は娘に慇懃に求婚するが拒否される。

父親が床に臥せっていることを知ったラ・ベルの一時帰郷の申し出に、野獣は嘆きながらも許可を与える。ラ・ベルは一週間で戻ると約束をした。2人の姉は里帰りした末娘から豪邸での生活を聞き、嫉妬して妹を引き止め、日限に間に合わないよう仕向ける。10日目の夜、ラ・ベルは野獣が死にかかっている夢を見、屋敷に戻った。

ラ・ベルは瀕死の野獣に再会し、「これで幸せに死ぬことができる」という野獣に「いいえあなたはわたしの夫になるのです」とラ・ベルが叫ぶと野獣は本来の姿に戻る。

 

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父親が旅に出るときに娘たちに土産は何が良いかと尋ね、二人の姉はレースとかパラソルとか贅沢品をねだり(推測)、末娘はバラ一輪のみを願う」

というのは、『シンデレラ』と同じパターンです!

yumi-kuroda.hatenablog.com

そして父が娘へと持ち帰ろうとしたハシバミの枝やバラの花は、呪術的要素を持っています。ハシバミの枝はグリム版ではシンデレラにドレスやガラスの靴を降らせ、ディズニー版のバラの花は野獣の屋敷の呪いを支配します。

 

バラの花びらが全部散るまでに、王子が人を愛し人に愛されるという「真実の愛」を見つけなければ、王子たちにかけられた魔法が解けることはない、という縛りはグリム版にもコクトーの映画版にも見当たらず、ディズニーのアニメ版の特殊設定のようです。

 ダン・スティーブンスの話からずいぶん脱線しましたが、上映中ボロボロ泣いてしまいました。

自分の命を賭けてベルを狼から守ろうとする野獣も、放置して村に逃げ帰ってしまえばメデタシメデタシなのに敢えて傷ついた野獣を連れて城に引き返すベルも、人として尊敬できる。

今まで村にある数冊の本を繰り返し読むだけだったのに、城の何万冊もあろうかという広大な図書館を見せられた時のベルの喜び。初めてシェイクスピアの話ができる相手に出会ったベルのうれしさ。本当によくわかる。

愛する人と共に見る景色が今までとは違って見える野獣の驚き。

数々の歌もすばらしく、お話が全てわかっていても観て損はしません。オススメします。


 

手フェチとしての政次あるいは高橋一生

手フェチです。


男性はどうしても手を見てしまいます。
指は長くて細いのが理想。
全体の大きさは問いませんが、大きい方がセクシーかな。
爪はきっちり四角に切って磨いてあるのが良い。

それを思い出させたのが、『おんな城主直虎』の高橋一生さん。
手の所作が美しい!

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おとわが駿府に呼び出し!
という大危機に、脳ミソをフル回転させてる(はず)前夜の手の大アップ。
大サービスショットです。
長い指。そんなに背が高くないはずなのに、手のチカラとしては必要十二分。


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おとわが勝手に物見遊山!
後を追い駆けひと山越えてようやく追いついた茶屋で一杯。
ただの茶碗なのに名品に見える!
美しい手はもちろんですが、手甲と呼ばれるカムイ外伝みたいなテープぐるぐるもポイント高いです。だって、明らかに手の美しさを強調してますよね。

そして極め付け!


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きゃー
手が!
政次の手が柴咲コウちゃんの手を!
直虎を制しようと、とっさに出した手の指がこんなにキチンと揃ってるなんて、そうそうあることではない。
指先まで神経が行き届いたこのタッチはいったいなんなのだ。
直虎を守るために常に緊張感みなぎらせてるってことか。


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こちらはその前に駿府から直虎への死の召喚状を渡すところですが、この時に指先まで神経行き届いてるのは、まあ普通。でも美しい。


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ころんだ直虎に思わず手を差し伸べ、拒否られる政次。

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せっかく生きて帰って来たのに、愛するおとわの手を敢えて振り払う政次。

こんなに美しい手を持っている高橋一生こと政次ですが、おとわ様に手を取られることはもう一生ないのかしら。
もったいない。
実にもったいない。

三浦春馬の直親同様、痛ましいことがわかっている政次の最期ですが、せめて、差し伸べた手をおとわ様に取られることを祈ります。


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三浦春馬と高橋一成の化学反応『おんな城主直虎』

 

「ほぼ日」の森下圭子さんによる『おんな城主直虎」自作解説が非常に面白かったので、載せておきます。三浦春馬高橋一生の「役者による化学反応」によって脚本家の最初の意図とは違ったドラマに仕上がっているとのこと。

これは特に『検地がやってきた』で本来まっすぐなキラキラ王子様役の三浦春馬が「爽やかクズイケメン」として視聴者に認定され、腹に一物あるはずの高橋一生の方が「不憫なアンドレ」として一身に同情を集め、三浦春馬が非業の死を遂げるまで一種の逆転現象を起こしていたことを指すかと思います。
 
 
高橋一生演じる鶴の方が、三浦春馬演じる亀より信用できるんじゃないかと思えるドラマに仕上がっていたことに対して)
 
あ、それはね、芝居と芝居がぶつかったんですよ。わたしが書いたときの想定では、どちらかというと「直親正義」寄りに書いたんですよ。

三浦春馬さんの亀を基本的には鶴に警戒心はあるもののど真ん中のまっすぐな男に、高橋一生さんの鶴を引け目はあるものの信用のおけない男に書いているんです。最終的に、13話からの「城主編」の鶴を観てもらったらわかるんですけど、私が頭の中で動かしていた鶴は、はじめからあの「城主編」の鶴なんです。

私はそこまで難しくするつもりはなかったんですけど、仕上がったものを観て、自分もちょっと混乱するんですよ。「なんでそこで目が潤んでんの!」とか(笑)。「え、ちょっと待って、 こうなると悪いのどっちだよ!」みたいな。

あれは、私が思うよりウェットに解釈した高橋一生さんと、逆に、私が思うよりドライに解釈した三浦春馬くんが化学反応を起こした結果、と私は見ています。確認したわけではないので、あくまで妄想ですが。
 
妄想!いやー これは実に面白い話。
脚本家自身が、「あれ?自分の書いてたドラマと違う!」と感じ、これは高橋一生がいろいろな感情をカメレオンのように変化させて演じる一方、高橋春馬は思いっきり上っ面というか、爽やかな時はイヤミなくらい爽やかに、そして落ち込む時は思いっきり落ち込んでコントラストつけすぎたために、視聴者は逆に三浦春馬の方が胡散臭い、と感じてしまうという。これも私の妄想に過ぎませんが。ドラマって脚本家の手を離れて、役者や演出でどんどん変わっていくんだなぁ
第11回の『さらば愛しき人よ』での、おとわと直親の永遠の別れのシーンも、「柴咲コウ三浦春馬は本当にまた会えるかもしれないという気持ちでやっていたのかも」とおっしゃっている。
 

あれは、まぁ、実際、生きて帰ってこられないと確信しているから言えるんですよね。
あ、でも、わたしはそういうふうに書いてたけど、もしかしたら、春馬くんは「戻ってくる」という気持ちで言ってたかもしれないよ?
不思議なもんで、私が思ってもみなかった解釈をしながら、みなさんが演じることもしょっちゅうあるので、ほんと、わかんないですよ。私が書いたときは、もう戻ってくることは絶対ないだろうという気持ちで書きましたけど。だから直虎も「心得た」と言えたわけですが。演じているおふたりの気持ちは違うかもしれない。

 
あと、放映されてTwitterなんかでどんどん視聴者の解釈が付与されて、思いもかけない方向にころがっていったり。
三浦春馬クズイケメン説は、SNSなしではありえなかったもんなぁ。
 
 
でも、輝くような笑顔の後の憂い顔なんて、「この人は10年間の逃亡生活で闇を抱えざるをえなかったんだなぁ」と明らかに役に深みを与える演技で、すばらしいと私も思いました。
森下先生も以下のようにおっしゃっています。

あと、今回の『直虎』をやりながらふと思ったんですけど、春馬くん、これからは、悪い役をやったら、おもしろいんじゃないかと。
悪い三浦春馬くんが、観たい。いま、ものすごくそう思ってるんです。この人を正統派の美少年だけにしておくのは、もったいないんじゃないかと思って。すんげー悪い、悪いのに逆らいがたい悪の華みたいな美青年を一回やるべきだ(笑)。
おじさんになる前に!

 

いや、本当にこの最期の覚悟のシーンの表情は射抜かれました。
私も三浦春馬についてはイケメン以外になんの感慨ももっていませんでしたが(『わたしを離さないで』はカズオ・イシグロの原作が好きすぎて未見)「悪の華」みたいな美青年は観てみたいです。
 
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そして、柴咲コウがこんなに良いと思っていなかったので、これから年末まで本当に楽しみ。柳楽優弥も楽しみ。亀にもまた出てきてほしいな。鶴も飛んでくるのかな。

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花のような秀頼さまを鬼のようなる真田が連れて『真田丸』

真田丸について書いておこう。

 
41話目の『入城』ものすごく良かった。
全50話の残すところ10話になって、初めて主人公が主人公として動き始める。
Twitterで「いままでついてきた視聴者へのご褒美のような回」というつぶやきを見たけれど本当にそうだ。
 
38話『昌幸』で長い長い伏線の間、実質的に「主人公」だった父親の真田安房守昌幸が退場。39話でひと息ついた後、40話『幸村』で遂に「真田信繁」から伝説の「真田幸村」の名を選び取り、41話『入城』で最終章のファンタジーが動き始める。
 
大河以外のNHKのドラマは8-9話での完結が多く『ちかえもん』も9話だったけど、この最後の10話が『真田丸』の本体だ。
 
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ずっと青年のようだった堺雅人は、九度山での幽閉生活後は、一気に壮年の真田幸村へと変身する。9カ月というドラマ内での時間経過で主人公が顔付きまで変わるというのは、感動的ですらある。
 
そして、幸村の新しい主君となる豊臣秀頼の登場も、非常にワクワクさせるものだった。
 
 立派な若武者へ成長した豊臣秀頼と二条城で対面したことが、徳川家康をして「このまま秀頼を生かしておいては自分亡き後の徳川の世は危うい」と豊臣攻めを決意させたという逸話を、本当にリアルに再現してくれたこの場面。
中川大志のキラキラ感とカリスマ性が半端なく、思わず「ご無沙汰しておりまする」とまるで眼の前にいるのが信長のように平伏せざるを得なかった内野聖陽徳川家康がなんの違和感もなかった。
 
加藤清正と並んで遜色のない武者っぷり!
 
 
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中川大志といえば、あの『平清盛』で少年時代の源頼朝を演じ、マツケンの清盛と対面を果たした時の目ヂカラも非常に印象的でしたし
 
 
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 「前半は神作」と言われた朝ドラの『おひさま』でも、井上真央の子供時代の兄を演じて弟を養子に迎えに来た華族のおばあさまが乗る高級車に身体を張って立ち向かったときの凛々しさも忘れがたいものでありました。
 
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このときのおばあさまのクルマの運転手は『真田丸』の内記さんだしなー
 
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草刈正雄がホントに『平清盛』の父である平忠盛を演じた中井貴一さん以来「主人公を超えるインパクトあるパッパ」を演じてらしたので、お館様!と武田信玄を追ってあの世に行ってしまった後の喪失感を一気に18歳の中川大志が奪い去るとは!
 
いちまつの期待はしてましたが、まさかこれほど存在感のある秀頼になるとは思ってもいなかったので本当にうれしい限り。
 
最後の最後に真の主役となった堺雅人の幸村と、彼を照らす「聖なる光」にふさわしい中川大志の秀頼。 残り9話の「最終章」でのドラマが楽しみでなりません!
 
 

『シンデレラ』実写版&グリム原案: あなたが最初に触れた木の枝を

『シンデレラ』実写版について、さる飲みの席にておとぎ話の専門家である神奈川大学の村井まや子先生を相手に熱弁を奮ったらしい。(飲むと演説するクセがある、とは友人の指摘)
 

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ディズニー映画でありながら、監督がシェイクスピア劇のケネス・ブラナー、継母役が指輪シリーズのエルフの女王で『エリザベス』で英国と結婚した女王を演じたケイト・ブランシェット、シンデレラ役は『ダウントン・アビー」のリリー・ジェイムズ。
 
シェイクスピアものや『高慢と偏見』のジェーン・オースティン系に目がない私としては、断然見ておかなくちゃ!と『CUT』の記事を美容院で読んだ時からずっと思っていて、男子社会に疲れて魔法の欲しくなったある日、六本木ヒルズのレイトショーへ。
 
 
魔法がとけるSFXも面白かったけど、私はシンデレラのあるセリフにひどく感銘を受けてしまったのです。
 
それは父親(映画では継母を娶った後に亡くなってしまう設定)が外国へ商談に出かける永遠の別れの場面。
「お土産は何がいい? 二人の姉さんはパラソルとレースだったけど」
「それではお父様が旅先で最初に触れた木の枝を」
なぜそんなものを? と訊ねる父親にシンデレラはこう答えます。
「旅の途中、お父様がずっと私のことを思い出してくださるように。そして、それを持って必ず無事に帰って来てくださるように」
 
なんてすてきなセリフなんでしょう!
二人の強欲な(と言っても現代の私たちにとっては至極当然なリクエストですけれど)姉たちの「パラソル」とか「レース」といった物欲的望みと全く違うところから出てくる発想。
モノなんてどうでもいい、父親の無事な帰りのみを願っている彼女の純粋さ(現代と違い旅はとても危険なもので、実際戻ってきたのは彼女の願い通りではある一本のハシバミの枝だけ)。それを「木の枝」に託すなんとなく呪術めいた神秘。
 
こんな古典的なセリフを入れられるのは、やはりシェイクスピア役者であるケネス・ブラナーならではだと思うのです。
 
(村井まや子先生からは、「グリム版では、守護妖精ではなくてハシバミの木がドレスや靴を降らせてくれる」と伺いました。確かにここには呪術的要素があります)
 
そして将来彼女と結婚する王子様は、日常的にこのようなセリフを言われるようになるのだと考えると、なんてロマンチック! 
 
「ではシンデレラ、財務大臣との打合せに行って来るぞ」
「あなた、今朝ことし初めてのツバメを見ましたわ。幸運を大臣にも分けて差し上げてください」
「そうか。伝えよう。(よくわかってないが、なんかイイコトありそうな気がしてくる)」
 
その時代の肉屋夫婦だったら、そんな悠長なこと言ってられないかもしれないけれど、現代に生きる私たちは王族でも食べられなかったアイスクリームも毎食でも召し上がれるのですから、そのくらいの遊びが日常生活にあってもいいはずです。
 
ベストセラー『フランス人は10着しか服を持たない』で思わず笑ってしまったのは、著者のカリフォルニア出身のアメリカ女性が誰もが想像する絵に描いたような西海岸的生活を送っていたこと。この本はパリの現代に生きる貴族のシックな暮らしについて書かれていますが、「アメリカ人ってマジにそんなことやってるの」という対比の方がはるかに興味深かったです。もちろん現代の日本人がどっちに似てるかと言えば、アメリカ人の方ですけど。ジムに通いながらジャンクフードを食べる、家にいる時や近所に出かける時はジャージ着用、いざという勝負の時だけ極端に無理した服を着る。
 
ケネス・ブラナーは英国人なので、フランス人とは昔からいがみ合ってきた仲ではありますが、でも新大陸と旧大陸でどちらが親近感湧くかって、断然後者だと思います。
 
太平洋戦争後、アメリカからの文化的支配を長らく受け続けている日本ですが、『フランス人は10着しか服を持たない』をアメリカ人といっしょに読んでいる場合ではないのです。
キモノを10着も持っていれば帯やら羽織やら雪駄やらアクセサリー類でバリエーションも付け放題、フランス人とはまた違う文化的知恵の全てを、すっかり忘れてしまったように見える日本。もったいない。
 
そして私が感動したシンデレラの父親へのセリフですが、万葉集の昔から夫婦で歌を詠み合っていたのですから、もっと気の利いたことを言えるはずです。
 
ディズニー映画を観て、まさかこんなことを考えるとは思っていませんでしたが、私だったら、旅立つ大切な人に何を願うだろうか。
 
ずっと考えてますが、まだ思いつきません(笑)
 
 
 
 

Dior and I 『ディオールと私』

もしかして4月で終わっちゃうんじゃないかと思い、とりあえずギリギリに観に行きました『ディオールと私』。

面白かった!

オートクチュールという特殊産業の裏側も興味深かったけど、チームでの創作ということを非常に考えさせられました。

ジル・サンダーというミニマムなブランドのメンズプレタポルテをやっていたラフ・シモンズというベルギーのデザイナーが、ディオールという今やシャネルと唯一オートクチュールという前近代的な創作活動を担うニ大メゾンのデザイナーに招聘されるところから始まる、ドキュメンタリー。

ジル・サンダーディオールも好き、という自分でも矛盾しておりさらに今回のラフの起用も同じ矛盾を孕んでいるというファッションフリーク的興味と、デザイナーとお針子集団がどのような過程で仕事していくのか、その創作をどうビジネスに結びつけるのか、という産業的興味もあって、前売り券まで買っていたのに結局終了間際。混んでるかと思ったけど、私の好きな6列目より前は全て空いていた。この先地方を回るようだけど大丈夫なんだろうか。勝手なお世話か w

まず、ラフ・シモンズの仕事のやり方が面白かったです。
彼はデザイン画をいっさい描かない。コンセプトを文字でいくつか挙げて、そのコンセプトに従ってアシスタントのデザイナーたちが実際にデザイン画を描いていく。
この手法は他のメゾンもやってるようで、私の中にあった「デザイン画を何千枚も描いてそれを弟子たちがカタチにしていく」という古典的ファッションデザイナーのイメージはガラガラと崩れました。
ただし、実際の生地作りから、服の形になってからの修正まで、実に細かくディレクションしていて、最後には糸を通した針まで握っていたので、ただの観念だけの人ではありません。
そこは、最終的に職人のお針子たちにも信用された所以かと思いました。

唯一、彼がキレたのは、いよいよ最終形の服ができあがってくる大切な日に、お針子チームのトップが、