アスフォデロの野をわたる途中で

忘却の彼方にいってしまいがちな映画・音楽・本の備忘録

花のような秀頼さまを鬼のようなる真田が連れて『真田丸』

真田丸について書いておこう。

 
41話目の『入城』ものすごく良かった。
全50話の残すところ10話になって、初めて主人公が主人公として動き始める。
Twitterで「いままでついてきた視聴者へのご褒美のような回」というつぶやきを見たけれど本当にそうだ。
 
38話『昌幸』で長い長い伏線の間、実質的に「主人公」だった父親の真田安房守昌幸が退場。39話でひと息ついた後、40話『幸村』で遂に「真田信繁」から伝説の「真田幸村」の名を選び取り、41話『入城』で最終章のファンタジーが動き始める。
 
大河以外のNHKのドラマは8-9話での完結が多く『ちかえもん』も9話だったけど、この最後の10話が『真田丸』の本体だ。
 
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ずっと青年のようだった堺雅人は、九度山での幽閉生活後は、一気に壮年の真田幸村へと変身する。9カ月というドラマ内での時間経過で主人公が顔付きまで変わるというのは、感動的ですらある。
 
そして、幸村の新しい主君となる豊臣秀頼の登場も、非常にワクワクさせるものだった。
 
 立派な若武者へ成長した豊臣秀頼と二条城で対面したことが、徳川家康をして「このまま秀頼を生かしておいては自分亡き後の徳川の世は危うい」と豊臣攻めを決意させたという逸話を、本当にリアルに再現してくれたこの場面。
中川大志のキラキラ感とカリスマ性が半端なく、思わず「ご無沙汰しておりまする」とまるで眼の前にいるのが信長のように平伏せざるを得なかった内野聖陽徳川家康がなんの違和感もなかった。
 
加藤清正と並んで遜色のない武者っぷり!
 
 
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中川大志といえば、あの『平清盛』で少年時代の源頼朝を演じ、マツケンの清盛と対面を果たした時の目ヂカラも非常に印象的でしたし
 
 
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 「前半は神作」と言われた朝ドラの『おひさま』でも、井上真央の子供時代の兄を演じて弟を養子に迎えに来た華族のおばあさまが乗る高級車に身体を張って立ち向かったときの凛々しさも忘れがたいものでありました。
 
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このときのおばあさまのクルマの運転手は『真田丸』の内記さんだしなー
 
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草刈正雄がホントに『平清盛』の父である平忠盛を演じた中井貴一さん以来「主人公を超えるインパクトあるパッパ」を演じてらしたので、お館様!と武田信玄を追ってあの世に行ってしまった後の喪失感を一気に18歳の中川大志が奪い去るとは!
 
いちまつの期待はしてましたが、まさかこれほど存在感のある秀頼になるとは思ってもいなかったので本当にうれしい限り。
 
最後の最後に真の主役となった堺雅人の幸村と、彼を照らす「聖なる光」にふさわしい中川大志の秀頼。 残り9話の「最終章」でのドラマが楽しみでなりません!
 
 

『シンデレラ』実写版&グリム原案: あなたが最初に触れた木の枝を

『シンデレラ』実写版について、さる飲みの席にておとぎ話の専門家である神奈川大学の村井まや子先生を相手に熱弁を奮ったらしい。(飲むと演説するクセがある、とは友人の指摘)
 

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ディズニー映画でありながら、監督がシェイクスピア劇のケネス・ブラナー、継母役が指輪シリーズのエルフの女王で『エリザベス』で英国と結婚した女王を演じたケイト・ブランシェット、シンデレラ役は『ダウントン・アビー」のリリー・ジェイムズ。
 
シェイクスピアものや『高慢と偏見』のジェーン・オースティン系に目がない私としては、断然見ておかなくちゃ!と『CUT』の記事を美容院で読んだ時からずっと思っていて、男子社会に疲れて魔法の欲しくなったある日、六本木ヒルズのレイトショーへ。
 
 
魔法がとけるSFXも面白かったけど、私はシンデレラのあるセリフにひどく感銘を受けてしまったのです。
 
それは父親(映画では継母を娶った後に亡くなってしまう設定)が外国へ商談に出かける永遠の別れの場面。
「お土産は何がいい? 二人の姉さんはパラソルとレースだったけど」
「それではお父様が旅先で最初に触れた木の枝を」
なぜそんなものを? と訊ねる父親にシンデレラはこう答えます。
「旅の途中、お父様がずっと私のことを思い出してくださるように。そして、それを持って必ず無事に帰って来てくださるように」
 
なんてすてきなセリフなんでしょう!
二人の強欲な(と言っても現代の私たちにとっては至極当然なリクエストですけれど)姉たちの「パラソル」とか「レース」といった物欲的望みと全く違うところから出てくる発想。
モノなんてどうでもいい、父親の無事な帰りのみを願っている彼女の純粋さ(現代と違い旅はとても危険なもので、実際戻ってきたのは彼女の願い通りではある一本のハシバミの枝だけ)。それを「木の枝」に託すなんとなく呪術めいた神秘。
 
こんな古典的なセリフを入れられるのは、やはりシェイクスピア役者であるケネス・ブラナーならではだと思うのです。
 
(村井まや子先生からは、「グリム版では、守護妖精ではなくてハシバミの木がドレスや靴を降らせてくれる」と伺いました。確かにここには呪術的要素があります)
 
そして将来彼女と結婚する王子様は、日常的にこのようなセリフを言われるようになるのだと考えると、なんてロマンチック! 
 
「ではシンデレラ、財務大臣との打合せに行って来るぞ」
「あなた、今朝ことし初めてのツバメを見ましたわ。幸運を大臣にも分けて差し上げてください」
「そうか。伝えよう。(よくわかってないが、なんかイイコトありそうな気がしてくる)」
 
その時代の肉屋夫婦だったら、そんな悠長なこと言ってられないかもしれないけれど、現代に生きる私たちは王族でも食べられなかったアイスクリームも毎食でも召し上がれるのですから、そのくらいの遊びが日常生活にあってもいいはずです。
 
ベストセラー『フランス人は10着しか服を持たない』で思わず笑ってしまったのは、著者のカリフォルニア出身のアメリカ女性が誰もが想像する絵に描いたような西海岸的生活を送っていたこと。この本はパリの現代に生きる貴族のシックな暮らしについて書かれていますが、「アメリカ人ってマジにそんなことやってるの」という対比の方がはるかに興味深かったです。もちろん現代の日本人がどっちに似てるかと言えば、アメリカ人の方ですけど。ジムに通いながらジャンクフードを食べる、家にいる時や近所に出かける時はジャージ着用、いざという勝負の時だけ極端に無理した服を着る。
 
ケネス・ブラナーは英国人なので、フランス人とは昔からいがみ合ってきた仲ではありますが、でも新大陸と旧大陸でどちらが親近感湧くかって、断然後者だと思います。
 
太平洋戦争後、アメリカからの文化的支配を長らく受け続けている日本ですが、『フランス人は10着しか服を持たない』をアメリカ人といっしょに読んでいる場合ではないのです。
キモノを10着も持っていれば帯やら羽織やら雪駄やらアクセサリー類でバリエーションも付け放題、フランス人とはまた違う文化的知恵の全てを、すっかり忘れてしまったように見える日本。もったいない。
 
そして私が感動したシンデレラの父親へのセリフですが、万葉集の昔から夫婦で歌を詠み合っていたのですから、もっと気の利いたことを言えるはずです。
 
ディズニー映画を観て、まさかこんなことを考えるとは思っていませんでしたが、私だったら、旅立つ大切な人に何を願うだろうか。
 
ずっと考えてますが、まだ思いつきません(笑)
 
 
 
 

Dior and I 『ディオールと私』

もしかして4月で終わっちゃうんじゃないかと思い、とりあえずギリギリに観に行きました『ディオールと私』。

面白かった!

オートクチュールという特殊産業の裏側も興味深かったけど、チームでの創作ということを非常に考えさせられました。

ジル・サンダーというミニマムなブランドのメンズプレタポルテをやっていたラフ・シモンズというベルギーのデザイナーが、ディオールという今やシャネルと唯一オートクチュールという前近代的な創作活動を担うニ大メゾンのデザイナーに招聘されるところから始まる、ドキュメンタリー。

ジル・サンダーディオールも好き、という自分でも矛盾しておりさらに今回のラフの起用も同じ矛盾を孕んでいるというファッションフリーク的興味と、デザイナーとお針子集団がどのような過程で仕事していくのか、その創作をどうビジネスに結びつけるのか、という産業的興味もあって、前売り券まで買っていたのに結局終了間際。混んでるかと思ったけど、私の好きな6列目より前は全て空いていた。この先地方を回るようだけど大丈夫なんだろうか。勝手なお世話か w

まず、ラフ・シモンズの仕事のやり方が面白かったです。
彼はデザイン画をいっさい描かない。コンセプトを文字でいくつか挙げて、そのコンセプトに従ってアシスタントのデザイナーたちが実際にデザイン画を描いていく。
この手法は他のメゾンもやってるようで、私の中にあった「デザイン画を何千枚も描いてそれを弟子たちがカタチにしていく」という古典的ファッションデザイナーのイメージはガラガラと崩れました。
ただし、実際の生地作りから、服の形になってからの修正まで、実に細かくディレクションしていて、最後には糸を通した針まで握っていたので、ただの観念だけの人ではありません。
そこは、最終的に職人のお針子たちにも信用された所以かと思いました。

唯一、彼がキレたのは、いよいよ最終形の服ができあがってくる大切な日に、お針子チームのトップが、

ブラームスはお好き?/サガン★朝吹登美子訳

ディオールはお好き?』ではなく、『私とディオール』まだ見れてないのですが、この前売り券を買うとメモと記念上映を1本千円で見られる権利がもらえるというので、買って観たうちの1本が『さよならをもう一度』(Good-bye Again)

原作のサガンの『AIMEZ-VOUS  BRAHMS‥‥』(ブラームスはお好き?)の方が全然タイトルとして良いと思うのですが。

イヴ・モンタンが渋い盛りで出ているのに、アメリカ映画なので仕方ないのか。

こちらの映像は、英語からさらにイタリア語になってるので、パリの風景でイタリア映画が演じられてる不思議なことになってますが、冒頭のブラームス交響曲第三番第三楽章と、バーグマンが街角でタクシーを拾うところ、モンタンが自分の車に乗り込むところ、アンソニー・パーキンスが凱旋門を背にオープンカーを運転しているところ、が次々と映し出されてこれからの120分にワクワクさせられます。

イングリッド・バーグマンは当時46歳ですが、原作ではパリでインテリアデザイナーとして働く39歳の主人公を演じています。彼女が映画の中で着る衣装が、サン・ローラン最後のディオールへのデザイン作。

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うむ、このスーツより、なぜかバーグマンが仕事から家に戻ってモンタンと食事に出かける前に着替えた部屋着のローブの方が印象に残りました。

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 ストライプで色はわからないけど、無難にゴールドっぽいのかな、光沢があるのでシルクでしょうか。仕事着→部屋着→ドレス っていちいち着替えるところが、昔っぽくて良いなー と思いました。

映画は冗長なんだけど、バーグマン、モンタンと三角関係を演じるアンソニー・パーキンスの存在が効いてて、なんとか最後まで持たせます。

サガン原作なのにアメリカ映画、っていうのがいまいちの原因なんじゃないかと思って原作を読んでみました。(躁鬱っぽいパーキンスは良かったけど。ほんと、そこだけがハリウッドで作られて良かった点)

「ロジェは自宅の前に車をおくと、かなり長いこと歩いた。大きく息をすって、少しずつ歩幅をのばしていった。いい気持ちだった。ポールに会うたびに、いい気持になるのだった。かれはポールしか愛していなかった。今夜だけは、別れぎわに、彼女が悲しんでいるらしいと感じたが、なんといっていいのかわからなかったのである。ポールは漠然とかれになにかを求めていた。かれがポールに与えられないなにかを、かれがだれにも決して与えることができなかったなにかを・・・かれはそのことをよく知っていた。

たぶん、彼女のそばに残って、一緒に寝るべきだったかもしれなかった。それが女を安心させる、いちばんいい方法だった。しかし、かれは歩きたかったのだ。夜の町を歩きまわり、ぶらついてみたかった。石畳の上の自分の足音を聞き、すみずみまでも知っているこの都会を見まもりたかった、そして、もしかしたら、夜のアヴァンチュールに出会うかもしれない。かれは河岸のはずれに見える明りにむかって歩きだした。」

おお!イヴ・モンタン(ロジェ)はそういう気持ちだったのか!

映画の中では、ただ女たらしでバーグマン(ポール)が若いパーキンスに走って初めて彼女の重要さがわかる、みたいな身勝手な独身貴族のようにしか見えませんでしたが、このロジェの気持ちは理解できる。だからこそ、彼は魅力的なのだし。

私は立場的に女主人公に感情移入していいはずですが、なんだか、夜のパリの街をひとりでぷらぷら歩きたい彼の自由さの方が共感できます。

当時24歳のサガンがこういった結婚しない男性の心情や、15歳も上の40代にさしかかろうとする独身女性の複雑な気持ちを表現し得ることは驚きです。

なんだかフランスの田辺聖子みたい。

私はなぜかサガンボーヴォワールと同じ引き出しに入っていて、19歳で衝撃のデビューを飾ったという『悲しみよこんにちは』も読んだことはなかったのですが、やはり一種の天才なのだと思います。朝吹登美子さんの訳もすばらしい。

フランス語でも読んでみようかな。

 

『女は女である』ジャン=リュック・ゴダール

本日は、ディオールの舞台裏を描いたドキュメンタリー『ディオールと私』の公開日。

先立って Bunkamuraル・シネマで1週間だけ上映された「モードと映画」特集のうち、「シャレード」を除く(ヘップバーンさん、ごめんなさい)3本を仕事の合間に根性で見て、やっぱり小さな劇場で見る映画っていいなあ、とつくづく思ったので記念にブログを書くことにしました。IT業界伝統ながら今更の初はてぶ(笑)

 

なかでもゴダールの『女は女である』は最高でした。

 

 

ゴダールはヌーベルバーグの「お勉強」として見たことが多く、いまいち心の底から良いと思ったことはなかったのですが、トレーラーでも見ることができる冒頭のタイポグラフィからカメラワーク、音楽まで、文句なく「この人は天才だ」と思わせられます。1960年の『勝手にしやがれ』でのデビューがどんなに衝撃的だったか、50年以上経った今でもこんなに新鮮に思えることを考えると、想像だにできません。

 

そして、主演のアンナ・カリーナが最高!

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無茶苦茶かわいい。

赤いカーディガンに赤い靴下、ベージュのコートに黒の手袋。

赤い傘を小脇にはさんで、煙草を吸いながらパリの街を歩く姿は本当に絵になってる。

観た翌日どうしても赤いカーディガンを着たくなったのですが、持ってなかったので、クリスマスくらいにしか着ない半袖のニットを着てみましたが、何か違いました(笑)。

 

突然ミュージカル仕立てになったり、『突然炎のごとく』や『ピアニストを撃て!』のオマージュの台詞が出てきたり、ハル・ハートリーみたいな小粋な感じで非常に気に入りました。(いや、むしろハートリーの方が影響受けてるのか)

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『はなればなれに』も見てみたいなー

 

1961年のベルリン国際映画祭で、夫婦ともに銀熊賞を取ったのは納得です。